(写真をクリックすると、日本俳句教育研究会の新しいHPへ移行します)
会長三浦のごあいさつのように、日本俳句教育研究会は、新生日本俳句教育研究会として新しい運営体制に移行しました。
本ブログページは、本日の記事で更新を終了し、今後は、新しい日本俳句教育研究会HPと公式noteで情報発信を進めていくこととなります。
任意団体のボランティアでの活動ではありますが、「俳句」を教材に教育活動を展開する教師や俳句愛好家の情報交換の場となるべく、寄せられた実践報告の紹介を続けていきたいと思っております。
実践報告やお便りは随時受け付けております。入力フォームまたは、メールをご利用くださいませ。
なお、新体制への変更と共に、受付メールが変更になりました。事務局あてにメールでご連絡いただきます際には、
e.nhkk.inquiry@gmail.com
までご連絡をお願いいたします。
また、令和6(2024)年度には、日本俳句教育研究会(nhkk)主催の「全国教室俳句コンテスト」を実施予定です。詳細は、日本俳句教育研究会HPとメールマガジンにてご案内していくこととなります。先生方からのご応募をお待ちしております。
日本俳句教育研究会事務局
E-mail e.nhkk.inquiry@gmail.com
HP https://e-nhkk.net/
note https://note.com/e_nhkk_haiku/
〒790-0921
愛媛県松山市福音寺町553-2-904
株式会社 夏井&カンパニー 内
TEL/FAX 089-908-7520(呼出)
つきましては、本日より、
改装後のお知らせまで、今しばくお待ちください。
]]>裏表紙には、
「ちょっと俳句をかじっただけの素人」と自称する著者が、愛好家の多くが陥る類型的発想という「わな」に気づき、それを誘発する「俳句そのものに内在する何か」に迫る。名作とされる先人の句に果敢に異を唱え、専門俳人たちの常識も容赦なく断罪。一方、作り手となった初心者に対しては、「俳句は遊びである。遊びだからこそ厳格なルールに従うべきである」と掲げ、世にはびこるセオリーを覆し、皮肉やユーモアを交えて江國流俳句の楽しみ方を実践的に説いてゆく。
と紹介されています。
あくまで江國さんは「素人料簡に徹したつもり」であり、だからこそ、ふざけずに「大まじめに書いたつもり」だと言いきります。
とはいえ、鷗外や漱石の句を添作してみたり、死亡記事から追悼句の実作演習をしてみたり……と、「くだければくだけるほど楽しい」と感じながら、まさに「俳句とあそぶ」江國さんの息づかいに満ちた一冊となっています。江國さん自身が滋酔郎の俳号で参加していた、小沢昭一さんや、永六輔さんらと作った「東京やなぎ句会」の話題も登場します。
初版は、40年近く前に出た本ですが、「俳句とあそぶ」とは今を楽しむことであり、時を経ても俳句の楽しみ方は変わらないのだな、と感じさせられた復刊本でした。
俳句は遊びだ! 人生の杖となる遊びだ! 真剣に遊ぶ。江國滋流俳句の楽しみ方――俳人・夏井いつき(帯より)
]]>7月25日(火)に、俳句甲子園の試合形式で行われる
「旭川実業高等学校俳句甲子園インイオンモール旭川駅前」
のお知らせが届きましたのでご案内いたします。
お近くの皆様、ぜひとも参加されてみませんか。
7月25日(火)14時〜
イオンモール旭川駅前の1階スターバックスコーヒー前のサンライズコートにおいて
「旭川実業高等学校俳句甲子園インイオンモール旭川駅前」
以下は、4月6日(木)に、行われた「旭川実業高等学校俳句甲子園in旭川西イオン」の様子です。
]]>
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「俳句と野球で文化を育む実行委員会」では、令和3年度より、小
今年も「さくさくはいくノート」が完成し、愛媛県内の新1年生全
●「さくさくはいくノート」とは
「さくさくはいくノート」は見るだけで楽しい、カラーの絵でみる
「4音からはじめる簡単な俳句の作り方」は、「5音の季語+季語
また、マンダリンパイレーツの選手がこのノートを使って詠んだ俳
●7月7日、宇和島市立三間小学校にて贈呈式を開催
「令和5年度 さくさくはいくノート」の完成を記念して、去る7月7日には宇和
マンダリンパイレーツの6名の選手から子どもたちに、「さくさく
贈呈式終了後は、キム・チャンヒ講師による俳句講座を行いました
たった30分の講座でしたが、マンダリンパイレーツの選手の力を
以下その一部
えんぴつでべんきょうをするなつのひる えん
きょうかしょはまじめになやむなつのあさ はる
こうていでぐるぐるはしるなつのそら はると
ともだちとしずかにはなすなつのあさ ゆづる
きょうしつのなかでえをかくばらのはな おとは
きょうしつでおもしろいずかんかぶとむし そういちろう
ともだちがひたすらあそぶかぶと虫 ひろと
けしごむはひたすらまわるなつのよる かずま
●「さくさくはいくノート」についての問合せ先
俳句と野球で文化を育む実行委員会(有限会社マルコボ.コム内)
電話:089-906-0694
FAX:089-906-0695
6月17日付のブログ「子ども俳句教室」の高山佳風先生より、続いて開催された「教師向け俳句学習会」のレポートが届きましたのでご紹介いたします。
後半には、初めての俳句作りに参加された現役の小学校の先生方の感想も掲載しておりますので、ぜひ参考になさってください。
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「子ども俳句教室」の報告を、日本俳句教育研究会(nhkk)ブログページで取り上げてくださり、ありがとうございました。
今回はその続きの、「教師向け俳句学習会」の報告です。
「子ども俳教室」60 分が終わり、その余韻に浸る間もなく、「教師向け俳句学習会」が始まりました。
当日参加者は、会場 9 人、オンライン Zoom5 人の 14 人。また、これとは別に、期間限定映像配信申し込みが 12 人もいました。
全員、小学校教師です。
主催者の、NPO 英語教育研究所・TOSS Sunny(共に代表 井戸砂織先生)の集客力、恐るべしです。
学習会のメインは、「俳句を作る授業」。
俳句を作る楽しさ、作った俳句を読み解く喜びを、一人でも多くの先生方に体感してほしいと思い、講座を実施しました。
もちろん役に立ったのは、組長の、『世界一わかりやすい俳句の授業』『子供たちはいかにして俳句と出会ったか』です。
そして、テーマ「恋」で俳句を作ってもらいました。
鑑賞は、「俳句ボクシング」形式で、赤組 1 句、白組 1 句の句合わせ。
好きな俳句の良い点をたくさんほめて、どちらかに多数決で決める。2勝した句は、決勝戦に進む。というバトル形式です。
これがものすごく盛り上がりました。
決勝に残ったのは次の 4 句。
待ち合わせドキドキしながらソーダ水
髪形を変えた次の日夏近し
電話待つ二十二時の熱帯夜
置き傘を忘れたふりで夏の夕
優勝に輝いたのは、「待ち合わせ〜」でした。
この後は、「取り合わせ」について補足説明をし、「学校俳句のススメ」を紹介して、90 分を終えました。
この講座の参加者の感想です。
★井戸先生が俳句の授業を子供たちにしたという話をお聞きしていたので、自分もできるようになりたいと思い申し込みました。今日は俳句の季語やきまりなどを学ぶのかと思っていたら、あのように実際に作ってみる、しかも対決方式でバトルというので、期待した以上の面白いセミナーでした。取り合わせの言葉あそびが本当に楽しかったです。ソーダ水という言葉が季語だということも初めて知りました。皆さんの俳句の感想を聞いていると、自分が作った時は考えていなかったような深い解釈も出て来たりしたのも面白かったです。子供の日記の呟きから俳句が作れるということも初めて知りました。ぜひ教室でも実践してみたいです。今日は参加できて本当に良かったです。ありがとうございました!
★zoom で参加できてよかったです。「取り合わせ」と「季語集」で、誰でも俳句の授業ができます。「12音の日記」という言い方も、俳句への敷居が低くなりました。
鑑賞=バトル。そして、難しい解釈ではなく、良いところを褒め合うやり方がとても良かったです。人によって解釈が違うのが面白くて、どちらがいいか決めるときにとても参考になりました。
高山先生の講座を久しぶりに受けましたが、にこやかな表情と面白い内容はさすがだなと感じました。
このような面白い会を開催していただき、ありがとうございました。
★ありがとうございました!!
高山先生のお話がとてもわかりやすく、俳句作りをしたことがないですが、作ることができました! 冬リフトと始めはしたのですが、季語なのに季節入れない方がいいかなと思って雪リフトにしました。そうやって、言葉を選ぶことが、とてもとても楽しいことですね!! その楽しさを教えていただきました!! 感激です!!
紅白戦も楽しかったです!! みなさんの作った俳句が、素敵で、それを解釈していく皆さんの考えも楽しくて、ずっと楽しい連続でした!
ありがとうございました!!
★俳句を作るというのが、とても気楽な気持ちでできて、とても楽しかったです。「取り合わせ」の方法を知ることができてこれからの指導に生かすことができそうです。鑑賞の仕方 もいいところ見つけになっていて、いいと思いました。皆さんの解釈がいろいろだったのも 面白かったし、それでいいのだなと感じました。たくさんの学びをありがとうございました。
★高山先生ありがとうございました
とても楽しく俳句を作ることができました。
こんなに楽しく面白くできるんだと思いました。鑑賞の時間もとても楽しかったです。
★本日の学習会、本当にありがとうございました!!
こんなに俳句が楽しいんだと、初めて感じた1日でした!
自分自身、まさしく作ったこともなければ、鑑賞の仕方も分からず、それが故に興味も持てず…でした。
が、熱中しました(^^)
特に、同じ俳句の解釈をしているのに、人それぞれ全く違う解釈ができる点に、面白さを感じました。
子供たちに、少しでもこの楽しさを伝えたいと思います。本日は本当にありがとうございました!
★高山先生!ありがとうございました!!
俳句作りがこんなにも楽しいのかと感激しました! しかも
テーマが「恋」
ドキドキ、なつかしい、わくわく
そんな感情が混ざって作っていました。
みなさんの俳句を解釈するところや、高山先生がプレバトのように演出してくださって、楽しい楽しい時間になりました!そして、高山先生が日本の文化、俳句を広めたいと語ったことも心に響きました!
この楽しさ、わたしも子供達に伝えたいです! ありがとうございました!
★高山先生、ありがとうございました!
俳句を作り、バトル形式で鑑賞する、とても楽しい時間でした。
子どもたちと同じように 12 音で作文し、5 音の季語を合わせて作るので、季語選びもワクワクしました。
改めて、日本語のすばらしさ、奥深さ、表現の豊かさを感じることができました。そして、みんなで鑑賞する楽しさ、おもしろさを味わうことができました。同じ俳句なのに、見える世界が違うことや、同じ言葉からイメージするものが、人によってさまざまあることでものの見方、考え方の広がりを感じることができました。
漠然と子どもたちに俳句を作らせたいと思っていました。
この楽しさを、わくわく感を、子供たちにも伝えたいと思います。ありがとうございました!
★高山先生
ありがとうございました!
初めて俳句を作りましたが、とても楽しくて、もっと俳句を作りたいと思いました! ソーダ水が夏の季語だなんて、俳句って本当に面白いです。
ぜひ、子どもたちにも俳句を作る楽しさを体験させたいです。
★高山先生、子ども達への授業から、教師向けまでありがとうございました! 午前中のみの参加でしたが、俳句を作る楽しさとみんなで鑑賞するおもしろさを知りました。
子ども達に授業したい!と思いました!!
★高山先生、昨日は本当にありがとうございました!! 子どもたちへの対応が本当に温かく、こんな学級を作りたい! と感動しました。高山先生の「いい句だなぁ〜」の余韻。月曜日に追試したいと思いました! 井戸先生のお宅で見せていただいた準備ノート。私もいつか講座を持たせていただいた時には、しっかりと、準備をしてのぞみたいと思いました!! 本当にお越しくださり、ありがとうございました!!
どの先生も、「俳句を作る楽しさを子供たちに伝えたい」と記しています。先生方が、それぞれの教室で、楽しく俳句を作る授業をしてくださったら、こんなにうれしいことはありません。
夏井先生大好き、プレバト大好き、俳句の授業大好きの、井戸砂織代表が、このような機会をつくってくださいました。心から感謝です。
俳句の種まきの輪が、少しずつですが、自分のまわりで広がってきているように思います。
私が俳句をするようになって、「人生の杖」をいただいたように、私も、まわりの人に、俳句を作る喜び、俳句を鑑賞する楽しさを伝えていきたいと思います。
今後も、微力ですが、俳句の裾野を少しでも広げられればと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。
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高山先生、感想からも先生方の大興奮が伝わってくる貴重なレポートをありがとうございました。
申し込み締切は、7月17日(月·祝)の 先着40名。お急ぎください!
俳句で冒険!
楽しく遊んで俳句の宿題もできる!
大型バスで大洲青少年交流の家に移動し、自然をたっぷり楽しみ俳
俳句作りが苦手でも大丈夫! とっても簡単な俳句の作り方を伝授します。
作った俳句で俳書道体験。完成した作品は飾付けをして持って帰り
開催日:8月2日(水)
会場:大洲青少年交流の家(愛媛県大洲市北只1086)
対象:松山市および大洲市の小学生
参加費:無料
定員: 40名(先着順)
申し込み締切: 7月17日(月·祝)
自然観察講師:
牧野蘭太郎(澤山陽一)先生
元愛媛県立伊予農業高等学校校長
牧野蘭太郎としてYouTube配信中
俳書道講師:
穂積天玲先生
穂積書道教室俳句部部長
俳書道体験講師
申し込みフォーム:
https://docs.google.com/forms/
お問い合わせメールアドレス:mhm_info@e-mhm.c
主催:まつやま俳句でまちづくりの会
独立行政法人
国立青少年教育振興機構
「子どもゆめ基金助成活動」
昭和二十三年六月、入水した太宰治と山崎富栄。天才作家と日本初の美容学校創立者の令嬢は、どのように出会い、恋に落ちていったのか……。いまだ謎に包まれる情死の真実とは!? 二人の生涯、太平洋戦争、恋と創作の日々、残された家族の思いを、徹底した取材で描き、スキャンダル「玉川上水心中」の真相にせまった、愛の評伝小説。
と紹介されています。
すさまじい取材に裏打ちされた評伝小説でした。私自身、卒業論文・修士論文で太宰治作品が研究テーマだったこともあり、山崎富栄に関する文献を読んだことはあったのですが、こんなにも生身の彼女を知ることができる書籍があろうとは思ってもいませんでした。そこには、愛されて育ち、英語や聖書を学び、立派な職業婦人となっていきいきと生きる女性がいました。何より、「戦争未亡人」「十二日の新婚生活」という言葉だけでは語ることのできない、夫・奥名修一との幸せな日々があったことに胸を突かれました。
また、太宰と出会ってから入水するまでの時間も、取材をもとに淡々と描かれていきます。太宰との関係は、決して富栄からの一方的なものではなく、太宰に必要とされてのものであること。早いうちから一緒に死ぬことを約束した関係であることが、小説の骨子となっていました。
読者は、二人が出会った22年3月27日から、入水する23年6月13日までを一緒にカウントダウンしていく訳ですが、太田静子や美知子夫人の3人目の出産、書くのも困難になるほど悪化していく太宰の肺病など、富栄にとってとてつもなく濃厚な毎日が過ぎていきます。そして、この時期に執筆された太宰の作品群の豊かさにも、ある種狂気めいたものを感じずにいられませんでした。太宰ファンとしては、よくぞ『人間失格』を書ききってくれた、との思いを強くすると共に、もしかすると、富栄の存在がなければ完成はなかったのでは、とも感じてしまいました。
今回、久しぶりに太宰作品(の引用)に触れることで、太宰の才能に惹かれてしまった富栄に共感しつつ、太宰作品を再読したくなってきています。
]]>まずはご覧ください。
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俳句をはじめてちょうど2年の、高山佳風(たかやまかふう)です。
人生は不思議なものです。
こんな私でもいいのか、こんな私でも少しはお役に立てるのかという出来事が起こりました。
私は、仕事柄、TOSS という、1,338 人が参加する教師の教育研究団体の SNS に参加しています。
そこでは、組長のこと、俳句集団いつき組のこと、俳句を作る楽しさ、自分の入選句などをもっぱら発信して「俳句の種まき」をしていました。
すると、1 か月前の 5 月 7 日に突然、NPO 英語教育研究所代表の井戸砂織先生から、子供向けの俳句教室をお願いします、とオファーがありました。場所は、愛知県豊田市です。
その時は、さすがに、大した俳句の力もない自分が講師として、子供たちの前に立って良いものか迷いました。ただ、私は 37 年間小学校教師をしていたので、楽しく教えることに関しては、人並み以上ではあるかなと思い直し、微力ですが受けることにしました。
また、この俳句教室が、国立青少年教育振興機構「子どもゆめ基金助成活動」の一貫であること、主催者が、日本の伝統文化に子供のころから触れていくことを大切にする、志の高い、英語教育研究所であることも知りました。
そして、こちらが恐縮するくらいの、素敵なチラシを作ってくれました。
俳句教室当日までは、『世界一わかりやすい俳句の授業』『世界一わかりやすい俳句鑑賞の授業』『100 年俳句計画』『子供たちはいかにして俳句と出会ったか』、日本俳句教育研究会の『俳句の授業ができる本』を必死で読みこみました。
子供たちにわかりやすいように、パワポのコンテンツも作りました。
そして何よりも、昨年の藤枝での組長の句会ライブに参加して、イメージを持つことができていたのも大きかったです。
当日は、小 1〜小 6 までの子供たちが 15 人。俳句を作ったことがある子は、たったの 2 人。
保護者 13 人、スタッフ 8 人も入れると、36人が集まりました。
さすがに緊張して迎えましたが、「十二音日記」が子供たちにはまり、次々と素敵な俳句ができあがりました。
【子供たちが作った俳句】全部です
夏の雲つかれる中も泳ぎきる
夏の空水の音きくスイミング
さか上がりがんばってたよ春の虹
サッカーのドリブルむずい炎天下
夏の空ドッジボールをがんばるぞ
てつぼうであしかけまわり夏の昼
マイクラでけんちくしたら夏の月
早くおき外に出て見た初日の出
せいこうだあしかけまわり夏の空
新記ろく七十一回夏の日に
夏の海およぎにきたる人のなみ
あさがおはあさにさくよとねったいや
じてんしゃでおでかけしたい風光る
お年玉ぜんぶあわせて一万円
サングラスおとうさんだけかけてるよ
夏の夜にがてなペットにさわれたよ
夏の空おなかちかづけさか上がり
どうどうときんちょうせず春祭
なんもんを毎日やった春の日に
にゅうがくしきいろんなともだちはるのひに
後半は、子供たちが作った俳句をみんなで読み解いていきます。次々と、子供たちが「感じたこと、いいなあと思ったこと」を発表してくれました。そして、なんと保護者やスタッフの皆さんまでもマイクに向かって、話してくれたのです。
楽しく、楽しく、盛り上がりました。
アンケートに書かれた、子供たち、保護者、スタッフの感想です。
【子供たちの感想】
★ほかのこのはいくをよみとることができ、17音の中からからじょうきょうを想像することができました。
★いろいろとかんがえながらはいくが作れて楽しかった。
★とても楽しかったです!!ぜんぶ楽しかったです。前にかざられた時、はずかしかったです。
★はいくをはじめてやってみたらむずかしかったけど楽しかったです。
★一生けん命に取り組んでいるのに心打たれた。
★たのしくてまたやりたい。
★楽しかった。 12 文字を考えるのがむずかしかった。
★たのしかった。
★自分ではいくをつくれて楽しかった。
★楽しかったし、てちょうをもらえてよかったです。
【保護者の感想】
☆身近な題材でたくさんの素適な俳句が出来上がり、とても勉強になりました。難しいと思っていましたが、これからもっと身近に取り入れてみたいなと思いました。
☆子供達が生き生きしていて笑顔をたくさん見られてうれしかったです。子供達の想像力がすごくて、その発言をきいているだけでとてもおもしろかったです。先生もステキな方で、楽しさを教えてもらえたと思います。今日は本当にありがとうございました。
☆とっても積極的に、意欲的に参加している姿が見れて、楽しかったです。あっという間に 時間が過ぎていきました。みんなの素適な姿が見れました。読みとる力すばらしかったです。
☆はじめは手も足も出ないという様子でしたが、発言をほめてくださるので、興にのって来たようで、楽しく俳句にふれられたようでした。参加されたお子さんたちの活き活きとした発想に驚かされました。
☆俳句を読みとく時のワクワク感、つくったことがうれしいし、ほめてもらえるのもうれしい。だんだんと手があがる子もふえていくのがすごかったです。前で丸を付けてもらった直後「なんかたのしくなってきた」と下の子。教室にも活かしたいです。
☆何気ない日常の出来事が季語をつけることですごく素敵な俳句になっていて、それが子どもでもできるというのがすごいと思いました。
☆楽しくみてました。本当に小学生なのかとおどろきです。
☆俳句が作れるか心配しましたが、皆さんと同じ様にでき、安心しました。
【スタッフの感想】
高山先生、本日はありがとうございました。子どもたちがどんどん笑顔になる。どんどん発表したくなる。授業とはこういうものか!と勉強になった一日でした。とにかく、俳句作り、俳句鑑賞がこんなにも楽しい物だったとは!感動の一日です。
友達の作った俳句の解釈を堂々と述べる。それを聞いて友達も笑顔になる。教室が実にいい雰囲気になる。そして、作者を明かす。真っ直ぐに伸びた手。「はいっ!」と嬉しそうに返事をする。こういう授業をしたいなあと心底思いました。そして、高山先生の「いい句だなあ〜」の優しく包み込むような温かい声。保護者の皆さんも笑顔、笑顔でした。すてきな時間を過ごさせていただきました。
懇親会まで一日ご一緒させていただき、ありがとうございました。俳句を通して、日常が変わる。人生を豊かにしていきたいと思います。
私が、授業するに当たって心掛けたことは、ただ一つ。子供たちが作った俳句は、ひとつ残らず、いいところを見つけてほめよう。最後に「いい俳句だなあ」と必ず伝えようということでした。
また、公的な助成活動事業なので、子供たちに 1 冊ずつ、「俳句ノート」をプレゼントすることができました。子供たちは、宝物のようにしていました。早速、俳句を書き込む子もいました。
プレバト、組長の影響を受けて、2 年前に、母のお墓参りにいったときに、初めて俳句を作りました。その後は、いつき組を勝手に名乗り、俳句ポスト、おウチ de 俳句くらぶ、一句一遊などに積極的に投句するようになりました。
そして、今思うのは、私が俳句に出会ったのは、この「子ども俳句教室」に繋がっていたのだということです。
組長からいただいた「人生の杖」。
その杖を支えに、ささやかに「俳句の種まき」活動ができました。予想さえしなかった、人生のステージです。
心から感謝申し上げます。
長文をお読みくださりありがとうございます。
追伸
「子ども俳句教室」60 分のあと、続けて「教師向け俳句学習会」90 分も、オファーいただきました。こちらもかなり盛り上がりました。この様子は、また、別のレポートでお知らせしたいと思います。
**********
高山佳風先生、当日の息づかいまで感じられるような実践報告をありがとうございました。
「教師向け俳句学習会」のご盛会の様子はもちろん、今後の高山先生からのレポートを楽しみにお待ちしております。
]]>
(画像をクリックすると、チラシをご覧いただけます)
第17回句集を作ろう!コンテスト
主催 有限会社マルコボ.コム
後援 愛媛県、愛媛県教育委員会、松山市、松山市教育委員会、松野町教
小学生・中学生を対象にした20句または40句の俳句を応募冊子
■募集内容
応募締切までの一年間に作った俳句を、『句集コン必勝ガイド』に
■40句部門
応募締切までの一年間に作った俳句40句を応募冊子を使って句集
●賞 …最優秀賞・優秀賞、一句賞、装丁賞
※「最優秀賞」は40句部門のみ。
■20句部門
応募締切までの一年間に作った俳句20句を応募冊子を使って句集
●賞 …優秀賞、一句賞、装丁賞
*どちらか片方の部門にのみご応募いただけます。(両部門にご応
*その他、学校応募を対象として学校賞を設けます。(学校賞は4
■対象
小学生・中学生
■応募方法
個人もしくは学校単位で、作品(句集)を送付してください。詳し
■募集期間
2023年7月10日〜2023年9月末日締切
■審査員
小西昭夫(俳人)
佐藤栄作(元愛媛大学教育学部教授)
西田真己(元愛媛県教育委員会委員)
堀田優子(元小学校校長)
小助川元太(愛媛大学教育学部教授)
山澤香奈(俳人)
三瀬明子(『100年俳句計画』発行人)
キム・チャンヒ(『100年俳句計画』編集長)
■賞
◇最優秀賞 …小・中学生各1名 ※40句部門のみ
(レプリカ句集・パネル進呈)
◇優秀賞 …40句部門3名/20句部門5名
(40句部門はレプリカ句集、各部門パネル進呈)
◇一句賞優秀賞 …40句部門5名/20句部門5名
◇一句賞 …両部門あわせて15名
◇装丁賞優秀賞 …40句部門2名/20句部門2名
◇装丁賞 …両部門あわせて5〜7名
◇学校賞 …最優秀賞1校、優秀校2校、奨励賞2校
(両部門あわせて。個人応募を除く学校応募の小・中学校対象)
※賞は応募状況により多少変動します。
■結果発表
2024年1月の表彰式ならびに『100年俳句計画』2024年
◆ご応募いただいた冊子はコンテスト終了後にすべて返却いたしま
*学校応募のためのまとめ買いをご希望の場合は、マルコボ.コム
*冊子代金に返送料が含まれていない旧版の応募冊子をご利用の場
*受賞作品の掲載権、出版権は主催者に帰属します。また、審査内
*応募段階でいただいた個人情報は適切に取り扱います。その上で
《お問い合わせ先》 有限会社 マルコボ.コム
〒790-0022 愛媛県松山市永代町16-1
TEL:089-906-0694(平日9時〜18時)/FAX
メール info@marukobo.com
■専用サイト
https://marukobo.com/kushu/
]]>
日時 2023年7月8日(土曜日)、10時〜12時
(画像をクリックすると、チラシページをご覧いただけます)
内容
1.俳句の作り方を知ろう
ワークシートを使って、俳句の作り方を学びます。
誰でも俳句が作れるワークシートで、
指導:月刊『100年俳句計画』編集長 キム・チャンヒ氏
2.俳句を詠んでみよう
展覧会を鑑賞し、作品を選んで俳句を作ります。
3.俳句の鑑賞しよう
詠んだ句をみんなで鑑賞し、
場所
町立久万美術館
愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生2-1442-7
Tel:0892-21-2881
対象
小学生〜大人(親子参加もOK)
お申し込み方法
100年俳句計画編集室までお申し込みください。
Tel:089-906-0694
参加費
無料(※要企画展観覧券)
企画展観覧券については町立久万美術館2023年自主企画展「
協力
有限会社 マルコボ.コム『100年俳句計画』編集部
まつやま俳句でまちづくりの会
]]>
[高齢者部門]・[一般部門]・[ジュニア部門]の三部門に分かれての募集です。
〆切 6月30日(金)※必着
(画像をクリックすると、参加申込書をダウンロードできる愛媛県のHPにとびます)
(画像をクリックすると、「俳句交流大会」のパンフレットをご覧いただけます)
〜以下詳細のご案内です〜
令和5年10月29日(日)に開催する、ねんりんピック愛顔のえひめ2023俳句交流大会の作品を
募集しています。たくさんの応募をお待ちしております。
【募集期間】
令和5年4月1日(土)から6月30日(金)まで ※必着
【募集区分】
[高齢者部門] 60歳以上:昭和39年4月1日以前に生まれた人
[一般部門] 60歳未満:昭和39年4月2日以降に生まれた人
[ジュニア部門] 小学生、中学生、高校生
【投句方法】
未発表作品1人2句以内(雑詠)を楷書で「募集句投句用紙」に記入し、ねんりんピック愛顔のえひめ2023
松山市実行委員会事務局へ郵送してください。(コピー可)
※募集句投句用紙は以下からダウンロードできます。
また、郵便はがきによる提出も可としますが募集句投句用紙と同じ内容を記載の上、郵送してください。
なお大会参加申込ウェブサイト(https://www.nenrinpic.net/)から直接投句(登録)することもできます。
【投句料】
無料
【提出先】
ねんりんピック愛顔のえひめ2023松山市実行委員会事務局
〒790−8571
松山市二番町四丁目7番地2(松山市役所ねんりんピック推進課内)
TEL:(089)948−6426
FAX:(089)934−1840
Mail:nenrin@city.matsuyama.ehime.jp
]]>
私は頼まれて物を云うことに飽いた。自分で、考えていることを、読者や編集者に気兼ねなしに、自由な心持で云って見たい。(「創刊の辞」より)
彼を流行作家にした新聞小説が『真珠夫人』(大正6年)です。(2002年に話題となった昼ドラの原作とのことですが、昼ドラは、物語の展開も役柄の設定も大きな脚色がなされていて、全くの別物のようですね。)
巻末の川端康成の「解説」にもあるように、『真珠夫人』は「通俗小説」であり、「『純文学的』な見地から評釈し、解説することは、余り妥当ではない」のかもしれませんが、個人的には、昨今の直木賞作品の読後感に似た、大衆性の中に純文学性の匂う作品として面白く読みました。
デジタル大辞泉で『真珠夫人』は、「父の借金により船成金の老人のもとに嫁がされた瑠璃子が、恋人直也のため貞操を守りつつ、男たちを手玉にとって生きてゆくさまを描いた愛憎劇。」と紹介されていますが、瑠璃子が妖婦を演じるしかなかった運命や、瑠璃子の選んだ復讐がもたらす結末など、どれもが瑠璃子自身が傷つけられるものばかりであるのが何とも切ない物語でした。
瑠璃子が社会から「男の血を吸う、美しき吸血魔」と見られようとも、彼女の真意やその悲劇的な末路を知る読者にとって、初恋への操を守り続けた彼女の行為は、まさに純な宝石であり、「真珠」のように穢れないものです。瑠璃子の描き方に、世間的な(男性的な)評価と、(女性の)本質との違いを突きつけられたような気がしました。
持てる者や男性が優位の世の中は変わろうはずもありませんが、彼女の「真珠」性を理解する直也が、彼女の無垢さを引き継ぐ美奈子を庇護するだろう今後に、救いをみたような気になりました。表も裏もまごうことなき「真珠夫人」は、美奈子で完成するのかもしれません。
]]>作品紹介では、
推しが炎上した。ままならない人生を引きずり、祈るように推しを推す。そんなある日、推しがファンを殴った。
とあったので、いわゆる「推し活」の話で、タイトルの「燃ゆ」は推しが炎上することを指しているのだとばかり思って読み始めたのですが、読み進めば読み進むほど、そう簡単ではないかも……、と用心することになりました。
というのも、主人公の高校生あかりの印象がどんどん変わっていったからです。当初、「推しを愛でる会」の中で「落ち着いたしっかり者というイメージ」で登場するので、
みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せにぐちゃぐちゃ苦しんでばかりいる。だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。
という彼女を、内省的な人物なのだろう、くらいに捉えていたのですが、どうやら、発達障害を抱えていて、現実的に「何気ない生活もままならない」状態であることが分かってきます。そして、学校も中退することになった彼女にとっての推しは、
体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分自身を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。
まさに唯一の自己の存在意義とでもいうべき深刻性を持つものとなっていくのです。
しかし、物語は彼女に推しに「注ぎ込み続ける」ことを許してはくれません。炎上後の推しは引退し、一般人となってしまうのです。
結末に用意された、「人」となった推しを確認しに行くエピソードこそが、まさに、彼女が自分の「背骨」であった「推し」と決別する(=火葬する=推し、燃ゆ)行為だと理解しました。彼女にとっては、「大人になんかなりたくない」ピーターパンそのものであった推し。その推しを燃やすことで、彼女自身、ピーターパンの世界から飛び出し、大人になることを選んだのでしょう。まだまだ「人間の最低限度の生活が、ままならない」彼女ですが、逃げるのではなく、「これがあたしの生きる姿勢」だと認めることで、「長い道のり」をスタートさせたのです。
]]>これまで大江さんの小説の中で最も印象深く心に残っているのは、『懐かしい年への手紙』で、すでに詳細の記憶はなくなってしまったのですが、小説を書くことでここまで自己を開放することができるのだなあと、えらく感動した読書体験だった記憶だけはいまだに残っています。もう一度、『懐かしい年への手紙』にしようかな……と思いつつ、それに続く作品で、執筆当時は作者自身が「最後の小説」と位置付けて書かれた(ある意味)集大成ともいうべき作品『燃え上がる緑の木』を、読み返すことにしました。(個人的には、初読の際に、『懐かしい〜』の流れで読まずに時間を空けて読んでしまって、しっかり向き合わずにさらっと読んでしまった後悔を残している小説ということもあっての選択でした。)
長い小説で、一言でストーリーをまとめきることはできないのですが、やはりタイトルである「燃え上がる緑の木」がテーマとなった作品でした。このタイトルは、イェーツの詩『揺れ動く(ヴァシレーション)』という詩に描かれた「片側は緑に覆われていて露が滴って」いて、「もう片側はそれが燃え上がっている」木からとられたものなのですが、イェーツの詩の一部は以下のように紹介されています。
両極の間に/道を定めて人は走る。/たいまつが、あるいは燃える息が、/来て破壊する/昼と夜の/すべてこれらの二律背反を。/肉体はそれを死と呼び、/魂は後悔と呼ぶ。/しかしもしこう呼ぶことが正しいなら/喜びとは何なのか?
梢の枝から半ばはすべてきらめく炎であり、/半ばはすべて緑の/露に濡れた豊かな茂りである一本の樹木。/半ばは半ばながら景観のすべてである。/そして半ばが新しくしたものを半ばがついやしてしまう。/凝視する怒りと 盲目の茂る葉との間にアッティスの像をかける者は/自分の知っているところを知らぬかもしれないが、/悲しみもしらぬだろう。
※アッティスー去勢した男神
主人公は「魂のこと」をしようとして「祈り」に「集中」し、「救い主」と呼ばれるようになる「ギ―兄さん」なのですが、物語を語るのは両性具有者のサッチャンです。サッチャンが、K伯父さん(大江健三郎と思われる人物)にすすめられて、自らが経験して「自分の言いはりたいこと」を書き残したのが、このギー兄さんの「受難」の物語なのです。
両性具有者のサッチャンは、子供のころは男の子として育ちながら、大学の途中で女性として生きることを選んで「転換」した人物なのですが、「二律背反」の性を併せ持つサッチャンは、まさに、ギー兄さんとサッチャンが自分たちの教会の「しるし」として選んだ「燃え上がる緑の木」につながる存在であると感じました。「燃え上がる緑の木」は、「精神と肉体が半分ずつ、しかもそれらのおのおのが、全体としてあるかたちで共存している木」とも言い換えられていましたが、物語を通して、人間が孕む両極性が描き出されている作品だと感じました。
一見、新興宗教の物語のようにも見えるストーリー展開ではありますが、本作に神は登場しませんし、描かれているのは、皆に「救い主」と崇められながらも、自らの弱さを露呈させながら教会を捨てて「魂のこと」のみに集中することを選ぶギー兄さんです。「自分のいのちより他人のいのちを大切に」思うギー兄さんが、最後に打ち殺される結末はあまりにも惨いものですが、ギー兄さん個人にとっては、「体の内部感覚と魂の内部感覚」という両極の中で悩み迷い続け、追いつめられてもただ「魂のこと」をしたいと願うところに行きついた結果であり、それこそが、ほかならぬ自分として過去と未来に繋がる方法であることを考えると、彼自身が選び取った結末に後悔や未練はないと感じました。だからこそ、サッチャンは、この物語の中心には「ギー兄さんの受難とその乗り越え」があり、かつ、「私がついにはどのように自由になったか」を述べたいと記していたのでしょう。
物語を締めくくる「Rejoice!(喜びを抱け)」の言葉は、サッチャンの耳で鳴っているだけでなく、弱さと強さの狭間でもがきながらも自分らしくそこに存在しようとする私たち読者へのエールでもあると感じました。
]]>(「厳しく怖い」伝説の大江健三郎 編集者が体験した冷や汗と忘れられない笑顔〈週刊朝日〉)
子供向けのエッセイという頭で読み始めたのですが、大人が言葉を尽くして潔く率直に答えるカッコよさに満ちた作品で、読み始めてすぐにその奥深さに心を揺さぶられました。
2章ではすでに、タイトルともなっている「自分の木」のエピソードが語られ、この本の方向性が語られていきます。
大江さんが、七・八歳ごろに聞いた祖母の話によると、「谷間の人」にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木があって、魂はその根元から降りてきて、死ぬとその樹に戻っていくのだそうです。そして、たまたまその木の下に立っていると、年をとってしまった自分に会うこともあるのだと聞き、幼い大江さんは、その人に会えたら「どうして生きてきたのですか?」と聞いてみようと思っていたというのです。そして、現在老人の年齢になった自分は今、「それに答えて、長い長い話をするかわりに、私は小説を書いてきたのじゃないか」と答えるのです。
私の胸のうちに、若い人たちに向けて、それも子供とさえいっていい人たちに向けて、「自分の木」の下で直接話をするように書きたい、という気持が強くなっていったのです。
また「どんな人になりたかったか?」という問いへの回答も、どういう仕事をするか、というところではなく、「どういう心の持ち方の人」になりたいか、という視点からの答えが秀逸で、心震えました。
子供の時に、その人の振舞い方、態度について深く印象づけられるまま、あの人のようになりたいと決心するのは、良いことだと思います。/人格、人となり、というふうにいってもいいのです。子供は子供なりに、人の内部にあるものについてかぎつけるものです。(略)大人たちが、あの人はエライ、というのに引きずられてじゃなく、自分でそう思っていた場合、つねにそれは正しかった、ということができます。
大江さんの子供の頃の思い出や家族との関係が具体例として披露されていくのですが、四国の森の中で育った大江さんに、大切なことを教え、学問への道をひらいてくれたお父さんやお母さんのエピソードも心動かされるものばかりでした。個人的に、大江さんの四国の森を舞台にした作品が好きなこともあって、作家としての生きざまに振れられる書物として大変面白く、一気に読んでしまいました。
姉妹編として刊行された『「新しい人」の方へ』は、「もう少し深め、もう少し役立つものとして書き直したい」との思いから、「『新しい人』になってもらいたい」という方針を決めて書かれた一冊です。こちらも同じく奥様のゆかりさんの温かな画がふんだんに取り入れられて、「敵意を滅ぼし、和解を達成する『新しい人』」をめざすようにとのへのメッセージが込められた一冊となっています。
]]>番組内で、50句の完成と句集刊行が発表されるや否や、予約が殺到して、発売前に重版が決まったという話題の句集です。
梅沢富美男「達成できて本当にうれしい」『プレバト!!』で詠んだ傑作50句掲載の句集「一人十色」発売決定
ヤフーニュースや、YouTubeにも会見の模様があげられていましたが、
副会長の
「出来上がった句集は、手にとって成果のあるものになっておりますので。芸能人がちょっと作ったとか、そういう扱いには絶対にしないでください。 ちゃんとした文芸作品としての1冊です」
の言葉の通り、句集には、梅沢富美男さんらしい50句が並んでいます。
先日のプレバト!! では、特集番組も放送され、掲載の50句以外の俳句も含めて、たくさんの梅沢さんの句が紹介されていていました。
『プレバト!!』放送400回!梅沢富美男の句集完成までの道のりを振り返る
一般の句集は、俳句のみが載せられていることが多いのですが、『句集 一人十色』はヨシモトブックスさんならではの味わいの一冊となっています。
前半は、まさに句集という佇まいで50句が掲載されており、俳人として梅沢さんが目指してきたものが形となっています。
後半は梅沢さんの歴史が詰まったページで、「永世名人への軌跡」、梅沢×夏井対談、添削からの学びのページ、梅沢さんのインタビュー、など盛りだくさん!
プレバト!! 10年の重みの一つの形として、感慨深くページをめくりました。
]]>小説『ある男』の特別サイトでは、次のような読者へのメッセージが載せられています。
『ある男』は、私の小説家生活二十年目のタイミングで刊行された長篇です。例によって、「私とは何か?」という問いがあり、死生観が掘り下げられていますが、最大のテーマは愛です。それも、前作『マチネの終わりに』とは、まったく違ったアプローチで、今回はどちらかというと、城戸という主人公を通して、美よりも、人間的な?優しさ?の有り様を模索しました。
「ある男」とは、一体誰なのか?なぜ彼の存在が重要なのか? 是非、ゆっくりこの物語を楽しんで下さい。
考えさせられました。様々な要素が描きこまれているので、解釈の切り口も多様で、とても面白く深く没入しました。それは、ある男が誰か、というミステリーの謎解きの面白さではなく、読者である「私」が、「私」自身として生きていることを問われ続けるような面白さでした。
私たちが、生まれや、国籍といった動かしがたいものを出生と共に抱えてしまっていること。そしてそれが、生きる上でのスティグマ(負の烙印)となってしまう現実があることを突きつけられる物語の中で、望まない過去を、重荷や足枷や負い目としないためにどう生きることができるだろうか? と問われ続けるような読書体験でした。
小説『ある男』を乱暴にまとめてしまうならば、
己のアイデンティティを何か一つに括りつけられてしまう苦しさを放棄して、「私」であり続けるためにもがき続ける「ある男」たちの物語
と言えそうなのですが、最後に究極の「ある男」として存在しているのが、主人公の城戸その人であるのも面白い趣向だと感じました。ある意味、城戸自身が、社会から逸脱しない形で何とか「私」でありたいと模索し続けている点で、最もリアルな現実を生きている「ある男」であると読みました。
小説の中で、正しい生き方や、正解が示されているわけではありませんし、一見救いの見えない未来だけではないか……と考えてしまいそうになるのですが、過去にとらわれずに生きるために本当に必要なものとして「愛」が提示された作品なのだ、と受け取りました。
私たちにできるのは、過去にとらわれるのではなく、目の前にいて変化し続ける者を何度も愛し直すことのみなのだ、と。それこそが揺るぎない大切なものを持ち続ける尊厳ある「私」として生き続けることであり、「私」個人の幸せなのだ、というかすかな希望の光を見せてくれたような小説でした。
このボリュームある小説がどう切り取られて映画となっているのか、さらに興味がわいてきています。
]]>4月6日(木)に、俳
「旭川実業高等学校俳句甲子園in旭川西イオン」
のお知らせが届きましたのでご案内いたします。
旭川実業高等学校といえば、昨年のNHK Eテレ「いつもそばに、17音がいた〜俳句甲子園2022〜」でも密着取材をうけられていた高校ですね。
(写真は旭川実業高等学校のHPより)
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「旭川実業高等学校俳句甲子園in旭川西イオン」と銘打って、俳
4月6日(木)
イオンモール旭川西 1階グリーンコート(タリーズさん前の広場です)
第一部10:00〜
第二部13:00〜
初恋は押し花にするシクラメン
春霞たゆたうやうに生きてみたい
風船の割れて向こうに間抜け顔
残業で疲れし母の朝寝かな
ホームラン日傘さす君に打ちこむ
按摩引っ込めと祖母には大きめの秋刀魚
このような俳句でディベートします。
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お近くの皆様、ぜひとも参加されてみませんか。
]]>主人公は、育児にも家事にも非協力的で、妻の仕事を見下している夫のもとで子育て中の小夜子です。30歳を過ぎた彼女は、女社長の葵(偶然にも同い年で同じ大学)が経営するプラチナ・プラネットで働くことを決めるのですが、この小夜子の物語と交互に描かれていくのが、葵の女子高生時代のエピソードでした。現在と過去を行きつ戻りつしながら読み進めるうちに、現在の葵が高校時代のアオイ(小夜子のような存在)とは大きく違っていて、むしろナナコのようなキャラクターに変化していることに気づかされ、葵のナナコ化の原因をさぐる読書となりました。
いじめから逃れてきたアオイと、空洞を抱えてどこにも属さないナナコは、人知れず友情を育んでいくのですが、強い絆で結ばれながらも、二人の起こした事件もあり離れてしまうことになります。その後二人は会うこともなく、一見亀裂が入ったようでしたが、現在の葵の選び取った旅行関係の便利屋という仕事や社名が、ナナコとの時間から生まれたものだったという心憎い仕掛けには心が温かくなりました。またラストに差し込まれた、対岸にいたアオイとナナコに小夜子が合流していくイメージも、人と関わることに疲れていた小夜子が、信じることを手に入れた葵に重なっていくようで、彼女たちが自分で捕まえていくだろう未来の確かさを見たように感じました。
・結局さあ、私たちの世代って、ひとりぼっち恐怖症だと思わない?
・ひとりでいるのがこわくなるようなたくさんの友達よりも、ひとりでいてもこわくないと思わせてくれる何かと出会うことのほうが、うんと大事な気が、今になってするんだよね。
・自分がやりたかったのはこういうことだった。立ち止まる前にできることを捜し、へとへとになるまで働き続け、その日の終わりに疲れたねと笑顔でだれかと言い合うことー
・なぜ私たちは年齢を重ねるのか。生活に逃げ込んでドアを閉めるためじゃない。また出会うためだ。出会うことをえらぶためだ。選んだ場所に自分の足で歩いていくためだ。
]]>
文庫の裏表紙には次のように紹介されています。
書斎の本箱に昔からしまってあるひとつの小箱。その中に、珍しい形の銀の小匙があることを私は忘れたことはない。その小匙は、小さな私のために伯母が特別に探してきてくれたものだった。(略)明治時代の東京の下町を舞台に、成長していく少年の日々を描いた自伝的小説。夏目漱石が「きれいだ、描写が細く、独創がある」と称賛した珠玉の名作。
小説は、病身で知恵の発達も遅れて臆病であった幼時から、体力も増して成績も伸びていった少年時代、そして苦悩の多い早熟な十七歳までの主人公の回想となっています。タイトルともなった「銀の匙」は、母の代わりに無償の愛で育ってくれた伯母の象徴なのですが、伯母以外にも、初めての友達となったお国さん、ほのかな恋心を抱くこととなるお?ちゃん、子供らしい時間を与えてくれた貞ちゃん、そして、美しい友達の姉様という女性たちとのほのかな触れ合いと別れが描かれていきます。
伯母がなくなったという事実が示された後、ラストに登場した友人の姉様との別れの場面がとにかく甘美でした。物語は、友人の別荘に一人で滞在中に、友人の姉様が嫁ぎ先から偶然に立ち寄り、幾日か同じ屋根の下で暮らすことになりながら、なるべく顔をあわせず過ごし、最後に別れの挨拶をしないままに、彼女のくれた水蜜を掌にのせながら、涙を流す場面で締めくくられます。
俥のひびきが遠ざかって門のしまる音がした。私は花にかくれてとめどもなく流れる涙をふいた。私はなぜなんとかいわなかったろう。どうしてひと言挨拶をしなかったろう。(略)そうして力なく机に両方のひじをついて、頬のようにほのかに赤らみ、腭のようにふくらかにくびれた水蜜を手のひらにそうっとつつむように唇にあてて、その濃やかなはだをとおしてもれだす甘いにおいをかぎながらまた新たなる涙を流した。
母的存在の加護を受けつつ、悔しさも経験しながら徐々に力をつけ、自分の信念を身につけながら独り立ちしていく主人公。そんな確かな成長の中で、行動はできないまでも美しい女性の存在に心を動かすまでのこの物語を、中学校三年間で男子校の生徒たちがどのように読んでいたのか、とても興味をひかれました。授業に関する書籍も手に取ってみたくなりました。
]]>卒業生それぞれを花になぞらえた俳句を送るという素敵な卒業記念「卒業する貴女へ花俳句」のご報告です! 先生ご自身は「挨拶句なので……」とおっしゃっておりますが、どんな生徒さんだったのか想像が膨らんでくる俳句の数々でしたのでご紹介します。
卒業生たちにとっては、大好きな花の大きな花束をもらったような卒業記念となったにちがいありません!! 皆さんが、それぞれの場所で素敵な自分らしい花を咲かせることを心よりお祈りしています。
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コロナ禍で入学式もなくスタートした高校1年生も、高校3年生となり、先日卒業式を迎えました。受験指導も、推薦書書きも壮絶で、くたびれ果てて俳句創作もままならない一年間でした。一句一遊でもお便りを読んでくださった夏井先生にエールを頂きました。
卒業記念にクラスの生徒達に「あなたをお花に喩えると」という題で好きな花の名を聞き、俳句を作りました。
福岡女学院名誉院長の言葉に「凜として花一輪 心ない人には踏みつけられても、心ある人には喜ばれる」という言葉があります。
一人一人の内面の美しさを外に表すという意味が大和言葉では「はな」なので、生徒への未来への旅立ちへのはなむけと致しました。挨拶句なので、俳句としてはなんてこと無いのですが。クラスのミニアルバムと、私の手書きのはがきをミニアルバムに貼ってプレゼント致しました。
久しぶりに俳句にはまって、創作の喜びを味わい、卒業の喜びを共に祝いました。生徒達へのエールとして、俳句を贈ることができて、しみじみと俳句を学んでいてよかったなと、思います。
来年度の配属はまだ決まっていませんが、授業でも俳句創作、俳句鑑賞の授業を仕掛けられたらいいなと思っています。
]]>
シリーズ第一弾は、第135回直木賞受賞作の『まほろ駅前多田便利軒』。多田便利軒への依頼を短編として重ねていきながら、多田と行天という、それぞれに一人で生きるしかない暗い過去を持つ二人がどんどん肉付けされていき、全体を通して一編の失った「幸福の再生」の物語となっているのを面白く読みました。また、第二弾の『まほろ駅前番外地』は、多田と行天だけでなく、第一弾で登場した登場人物たちが主人公となるスピンオフ的作品で、より魅力的となっていく登場人物たちと、唯一新たに加わった多田の思い人の存在に期待が高まっていきました。
第三弾の『まほろ駅前狂騒曲』は、シリーズ唯一の長編で、シリーズのオールスターが登場して、とんでもない大騒動へと発展していきます。「だれともかかわりたくない、一人でいたいと願って」いた多田と行天が、騒動の中で、「だれの記憶にも残らず、自身の昏い記憶だけ抱えて深い淵に沈むことはできない」こと、「生きている限り誰かにつながっていること」を身をもって知り、「厄介事を抱え込み、人々の暮らしのなかで生きていく」便利屋として真の相棒となっていきます。喜びや悲しみや幸福や苦しみは、一人の中で完結するものではなく、かかわった皆につながっているのだ、というメッセージが随所から伝わってきました。
第一弾の冒頭、これから多田の「旅」がはじまり忙しくなる、という曽根田のばあちゃんの予言によって、始まったまほろシリーズでしたが、第三弾の曽根のばあちゃんの言葉と共に、「とてもとても遠い場所。自分の心のなかぐらい遠い」場所で自分を取り戻して、幸せでいられる場所を見つける多田と行天の旅を見届けた気持ちになりました。
多田さんの旅は、そろそろ終わるのかもしれないね。
行きたい場所にたどりつけたってことだ。またいつか、旅を始めるときが来るだろけど、それまではゆっくり近所を散歩すればいい。
まほろシリーズはすべて永山瑛太×松田龍平で映画やドラマになっているようですね。見てみたくなっています(笑)
]]>令和4年度味酒地区人権学習会として子規没後120年記念を記念した講演で、タイトルは「子規の最期ー深い愛に守られてー」。私自身は、町内の回覧板で講演の開催を知ったのですが、参加してみると、コロナによって延期されて3年後にやっと開催が叶った講演だと知り、偶然にも参加できた幸運を喜びながら拝聴しました。
冒頭、コロナを経ることで、先生ご自身が支えあうことで得られる力を強く感じるようになり、子規の最期に対してのとらえ方が変化してきた、とのお話ではじまりました。以前は、病気の中で子規がいかに頑張っていたのか、という趣旨で講演されることが多かったそうですが、現在は、看病する側の愛情があったからこそ子規の偉業が達成されたのだ、と考えられているとのこと。子規とお弟子さんたちのそれぞれが力を与え合い、愛を与えあうことで苦しい闘病の中を生きることができたのだ、とのお話に大変興味をひかれました。
子規を見守ってきたオールスターが写真付きで登場し、病床日記や、仰臥漫録、病床六尺などの資料もたくさん紹介されていくので、子規の最期にとどまらず、子規の生涯をなぞっていくことができる講演となっていて、子規の総復習をできたような気がしました。特に、先生の私物である『仰臥漫録』の複製本を拝見できたのが貴重な体験で、死によって記入することなく終わってしまった真ん中の空白ページに、胸が詰まりました。
繋がりあうことができづらくなった世の中だからこそ、繋がれているすべてのものを大切にしながら、今目の前にあるものを無二のものとして、一つ一つに丁寧に向き合っていきたいと感じた夜でした。
]]>「いろんな事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち」を描いた6編の短編集です。(映画は、「ドライブ・マイ・カー」の登場人物たちを設定に借りながら、「シェエラザード」「木野」のエピソードも投影されていました。ほかに、「イエスタデイ」「独立器官」「女のいない男たた」が収録されています。)
「木野」は、初読でも一番好きで印象に残っていた作品でしたが、やはり今回もこの作品を一番面白く読みました。村上春樹さん的メタファーを織り込みながら描かれる、「痛切なものを引き受けたくなかったから、真実と正面から向かい合うことを回避し、その結果こうして中身のない虚ろな心を抱き続けることになった」主人公木野の物語なのですが、妻を失った“喪失感”に目をつぶり続けていた男が、自らに対峙し、「おれは傷ついている、それもとても深く」と認めるまでの時間は、映画ですべてをそのままに受け入れることを選ぶ主人公家福の姿に重なっていきました。
小説に触発された濱口竜介監督は、「奥行きと重みを失った自分の心が、どこかにふらふらと移ろっていかないように、しっかりと繋ぎとめておく場所」として、家福には「マイ・カー」を用意し、「いったん自己を離れ、また自己に戻る」俳優の再生の物語を完成させたのでしょう。そしてまた、それぞれの短編が、「おれ自身が孤島なのだ」とでもいうような“喪失感”を抱えながらも、(積極的ではないながらも)目を背けずに己であり続けようとする「裸の一個の人間」が見える小説となっている点も、映画の到達点に繋がるものを感じずにいられませんでした。
僕らはみな同じような盲点を抱えて生きているんです。
他人を見たいと望むのなら、自分自身を深くまっすぐ見つめるしかない。
回り道みたいなものが必要だった。
どこかで現実と結びついていなくてはならない。
]]>『ηなのに夢のよう』は、ミステリーの明解な種明かしもないままに終わってしまい(謎解きに主眼がない印象)、四季との関連性もフワッとしています。オールスターを登場させる中で、西之園萌絵(私が読んだ森作品の全てに登場してきていた)の転機を描き切るファンサービスの一冊なのかなという印象でした。とは言え、森さんならではの奥行きある死生観を面白く読みました。
一方『ジグβは神ですか』は、宗教・芸術・戦争などへの言及を興味深く読んだのですが、四季に少し接近し、四季シリーズの『冬』への展開を予想させるものとなっていて、もしかすると、Gシリーズ三部作が『秋』と『冬』の長い期間を埋めるものになっていくのでは……と勝手に想像し、ワクワクしてきました。真賀田四季については、後期三部作の完結を待って、一気読みしたくなりました。
〈おまけは…〉四季シリーズ『夏』で気になっていた事件を描いているのが、Vシリーズ『捩れ屋敷の利鈍』です。
Vシリーズ・保呂草潤平とS&Mシリーズ・西之園萌絵が、事件の真相に至る密室ミステリィです。こちらも、ファンサービスのオールスター登場作品系の一冊で、四季シリーズで明らかになる瀬在丸紅子と犀川創平の秘密(!?@驚き)の関係が、既にこの作品から臭わせられていたのだと分かり、どちらを先に読んだとしてもファンが喜びそうな趣向だなと感じました。
個人的には、「芸術とは、そもそもが役に立たないもの」としながらも、物語の中で展開される保呂草(芸術を盗む側)の存在や考え方を面白く読みました。「人間が、どうしてものを造るのか、どうして創作するのか……。それらは、宇宙の運行にはなんら影響のない、無駄な運動である。(略)人間と同様に、限りなく無に近いちっぽけな理由だろう。」と言いながらも、「人間の小ささを、少しでも集めようと」している保呂草。また、「人生という仕事をやり遂げるための道具が、個人の躰と右脳そのものである、つまり、私たちの存在すべてが道具なのだ」と考え、道具を選ぶと言うことを、「可能な最良の筋道を選ぶことと等し」いとする彼の美学を好ましく味わいました。
]]>大人も楽しめる俳句甲子園「まる裏俳句甲子園」が、2020年9月より実行委員会の変更と共に、「あしらの俳句甲子園」と名称を変えた大会です。副会長の夏井は、五十嵐秀彦先生、岸本尚毅先生と共に審査員での参加です。
私は、午後からのみの観戦でしたが、出てくる俳句の素晴らしさに舌を巻き、素晴らしいディベートの応戦に大いに笑い、楽しい時間を過ごさせてもらいました。
大会の様子は、昨日の前夜祭とともに「ツイキャス」でも配信されていたので、ご自宅から観戦された方も多かったのではないかと思います。
全国から集まった方々の熱気に包まれた会場では、旧知の方々だけでなく初めてお目にかかる方々も多く、私自身、コロナをはさんで久しぶりの観戦であることを実感しました。
また、日本俳句教育研究会宛てに、実践をお送りいただき、本ブログでも紹介させていただいていたクラウド坂の上先生や、山本先生とも初めてお目にかかることができ、大変嬉しく思いました。
山本先生は、チームくじら雲で優勝! 副会長の審査新優秀賞も受賞されていました。おめでとうございます。
こうやってご自身でも俳句を楽しまれている先生方の実践を、どんどん紹介していけるnhkkでありたいと感じました。
また、本選には、我がカルチャー教室のアイドル・小五のさなも出場していたので思わず応援にも力が入りました。彼女が立派にディベートをこなす姿に、楽しむことに年齢によるハードルはないのだ、と改めて感じました。
俳句を通して子ども達に対してやれることもまだまだ沢山ありそうだ、との思いを強くした「あし俳」観戦でした。
]]>ジョン万次郎と、ハーマン・メルヴィルの『白鯨(原題:Moby-Dick)』の世界が融合して進んでいく物語です。メルヴィル本を未読のため、夢枕本の前にまずはそちらを読むべきか……と悩みましたが、その長さに加えて難解との前評判がネックとなり、二の足を踏んでしまいました。
夢枕本『白鯨MOBY-DICK』は、遭難したジョン万次郎を救出したのが、船長・エイハブ率いる米国の捕鯨船ピークオッド号だったという設定から、万次郎とメルヴィルの世界が交差されていくことになります。破綻なくエイハブの世界に万次郎が存在していることに驚きながら、面白く読み進めていきました。
万次郎に銛打ちを教えた半九郎や、エイハブなどの白鯨に狂わされた男達の物語なのですが、「美しい、白い、地球そのもののような」白鯨が、「人が、畏(おそ)れ、崇拝するもの。恐怖し、忌み、遠ざけようとするもの」「神と悪魔とに分かれる前の姿」として描かれていくのが印象的でした。
この世界には、人の考えでは計りしれない何かの力が働いていて、時々、人は、そのような力の作用の中にその身をからみとられることがあるのかもしれない。
「白」という色について、「大きな哀しみの色」など様々な考察がある点も興味深く、物語が進んでいくにつれて、「白鯨」とは私たちが畏怖すべきものの象徴に他ならないとの思いを強くました。
そして、作家志望のイシュメールの台詞そのものを、夢枕獏さんが『白鯨』で目指したものとして読みました。
アメリカという国が持つべき神話たりうる、壮大な物語をこの手で作りあげてみたいんだ。
渾沌(カオス)そのもののような、時に破壊的で、暴力的で、名付けられないもの。世界中の神話的物語の多くがそうであるように、その意味を示し難いもの。だから、その物語は、完璧であってはならないんだ。名づけられない渾沌をそのまま内包した不完全なる物語こそが、完全な物語なのではないか。
「自らの神話を生きるための旅の途上」にある私たちは、神とも悪魔ともつかぬ畏れの象徴を追って、船長エイハブのように進み続けるしかないのかもしれません。
人の為す業(わざ)は、全て愚かなことだ。人の為すことで愚かでないことなどひとつもない。愚かを恥じるな。愚かを寿(ことほ)げ。愚かこそが人であることの証(あかし)なのだ。小僧よ、己れの魂が示す方向を見極めよ。(略)その魂が示す方向へただゆく。ただゆく。人にできるのはそれくらいじゃ。
]]>
自由に集えない世の中ではありますが、ネットで繋がりあいながら、皆様が俳句を教材にした活動を進めていくお手伝いの場ととしてあり続けたいと考えております。
2023年も、皆様からの日々の実践報告や、新しい試みのご提案など受け付けておりますので、ぜひとも事務局までお寄せください。
株式会社 夏井&カンパニー 内
日本俳句教育研究会事務局
担当:八塚(やつづか)
〒790-0921
愛媛県松山市福音寺町553-2-904
TEL/FAX 089-908-7520(呼出)
E-mail nhkk.info@gmail.com
]]>主人公のこっこは小学三年生。祖父祖母、父母、三つ子の姉の8人家族で大阪の公団住宅の3LDKに住み、潰れた中華料理屋からもらってきて居間を占領している深紅の円卓を囲む毎日を送っています。しかし、賑やかな家族に不満を抱き、「孤独」を愛し、「ため息」が好きなこっこ。心から尊敬するのは、文字好きの祖父石太と、誰よりも思慮深い吃音の幼なじみのぽっさんだけです。気になった言葉は、忘れないようにジャポニカの自由帳にメモするのが日課です。
「うるさいぼけ」が口癖で、ぽっさんの吃音を格好いいと口に出すなど、皆とちょっとズレているために、人を傷つける可能性のあった(悪気なく傷つけていた)こっこですが、「自分の身体の中で、文字や思いがじくじくと発酵していくよう」に「言葉を発する瞬間に、わずかな重力を感じるように」なっていきます。さらには、思いをぶつけることが「理不尽なこと」だと分かるようになり、本当の孤独ではない寂しさを知るようになり、クラスメイトにも心を寄せられるようになっていく、そんなこっこの一夏が描かれていきます。
最も印象的だったのは、こっこが、大事にしていてジャポニカ学習帳を、自分以外の乾成海のために使うラストでした。乾成海は、「しね」と書いて折りたたんだ紙くずを、机の中に山のようにストックし、皆に見つかる前に焼却したまま、現在不登校となっているクラスメイトです。こっことぽっさんは、学習帳を破って、お気に入りの言葉の数々を書いて折りたたんで彼の机を埋めていました。そして、一ヶ月半後に登校して、机の中の紙に驚き、一枚一枚を開きながら笑みを取り戻していった乾成海は、その紙きれを教室の窓から雪のように降らせることを思いつくのです。
「円卓」が料理だけでなく、家族に幸せをも分け与えていることに気づいたこっこ。こっことぽっさんの好きな言葉が乾成海に分けられて、また、その言葉が紙吹雪となってこっことぽっさんに降ってくるラストは、なんとも「円卓」的で、じんわり温かくなりました。また、そこに書かれている言葉も二人の個性が出ていてなんとも可愛らしく……。(ぜひ小説で確認してほしいです!)
ありのままに生きようとする小学生時代を眩しく思い出した小説でした。
]]>主人公は、大学卒業を間近に控え、児童福祉職への就職も決まり、手持ちぶさたな日々を送るホリガイ(堀貝佐世)です。身長175?、22歳、処女、人付き合いも不器用で、言動も変わっている彼女の日常の中に、ネグレクト・自殺・リストカット・レイプなどの、近しい人間の尊厳を踏みにじられる現実が、交差していく物語でした。彼女が児童福祉司の資格を取った理由も、「テレビの特番で見かけた行方不明の男の子を探すため」という説明しにくいもので、人には理解されにくいホリガイなのですが、終始一貫彼女は、「どうしてとんでいって君の傍にいることができないのか」と、決して巻き戻すことのできない時間に怒りを抱え、寄り添い、自分自身までが傷つく存在であり続けます。話し下手で、失態の多いホリガイだからこそ、きれい事でないリアリティをもって迫ってきました。
侵害され、傷つけられてしまった者の傷はなかったことにはできません。そんな人たちにとって「君は永遠にそいつらより若い」なんて言葉は、一見、慰めにもならない無責任きわまりないものでしかないように思えます。しかし、傷つけた者(強者)よりも弱者の未来の方が長いという確かな現実は、傷つけられて痛みを抱えている者への確かな救いであり、エールの言葉になっていると感じました。
また、登場人物達の誰かのための小さな行動が、思わぬ繋がりを持ちながら、少しずつ別の動きへと影響していく物語からは、孤独や生きづらさを感じる毎日であっても、すぐ傍に必ず誰かはいるから……(大きな救いは与えられずとも拠り所はあるよ……)というメッセージを受け取ったような気がしました。
]]>それぞれの「作品」に出てくる【主人公】と〈星〉は次の通りです。
「真夜中のアボカド」―【双子の妹を亡くした、「目に見えて育っていくかもしれない命の元」であるアボガドの種を育てている婚活中の三十代の女性】〈双子座カストルとポルックス〉
「銀紙色のアンタレス」―【夏休み、一人暮らし祖母の家を訪れ、泣いているような表情の女性に思いを寄せる十六歳の高校生男子】〈わし座のアルタイル・蠍座のアンタイル〉
「真珠星スピカ」―【交通事故で亡くなった母親の幽霊との奇妙な同居生活を送る学校でいじめを受けている女子中学生】〈乙女座のスピカ〉
「湿りの海」―【妻の浮気から離婚しながらも、アメリカに渡った娘と妻が忘れられず、隣に引っ越してきたシングルマザーと娘との交流をはじめる男性】〈月の「湿りの海」のイラスト・(こと座のベガ)〉
「星の随に」―【父の再婚相手との間にできた弟を可愛いと思いながらも、新しいお母さんとの微妙な溝を埋められない小学生の男の子】〈白鳥座のデネブ・織り姫座のベガ・彦星のアルタイル〉
最初と最後の作品は、コロナ禍を反映した作品でもあり、5編全てが明るい未来を描ききるというような小説ではありませんでした。しかし、どの物語にも、主人公が立ち向かわねばならない相手(現実)とは別の所に、主人公を肯定してくれるような(精神的な支えとも言える)存在が書き込まれているのが印象的でした。また、それぞれの物語に出てきた星々が、主人公達が自己存在を認識することに一役買っているのも特徴的で、明確な未来を見せる結末ではないながらも、星々の静かながらも確かな輝きが、それぞれが先に進んでいくことを保証しているように感じました。
「夜に星を放つ」とは、夜のような世の中に、星である自分を放ち、自分自身として輝こうとする主人公たちそれぞれを示しているのかもしれません。
]]>「夏柑ひとつ」の章には、この4年間で詠まれた200句が収録され、後半には、以前このブログでもご紹介した『空にねる[俳句とエッセー]』から改めて199句が再録(「空にねるの章」)されています。
プレゼントを包んで手渡されたような美しい装丁の句集で、お土産にいただいたスイーツの箱を開くような気分で手に取りました。
「夏柑ひとつ」の章
帯で坪内稔典さんが取り上げられている「首謀者はこの捩花か透きとおる」も大好きな句でしたが、他にも心動かされる句がたくさん。私の超個人的なざわざわ感(!?)好みで、エイヤッと選んだ捩花以外の10句。
桜咲く人間以外みな真顔
肉親やつくづく枇杷の皮厚い
走り梅雨耳たぶ触ってひっぱって
ふしだらに蜘蛛の太って惑星も
新涼の鏡よどこの馬の骨
学問の自由石榴に割れぬ自由
木枯に卵は羽根が生えそうよ
父の日の窓の雨雲父かしら
とんび今わたしの呼吸冬の海
屑みかん星に名前をつけましょう
また、自然体で季語の只中に存在しているような句群も魅力的に感じましたし、リアルな映像が見えるような句にはにやりとしてしまいました。
来た順に好きにすわって花の中
蟬の声あれは大陸からの風
打ち合わせ雪に脱線していたる
寒鴉空ごと降りてくるような
ペコちゃんの舌になってる雪が降る
帰宅してまず伊予柑にグータッチ
鹿の子が視力検査の窓に来て
隣合わせに尻もちと桜貝
「空にねるの章」の、前回抽出の句(省略します)は今回も好きでしたが、4年を経てまた新たに
昼顔やひさしくわが血みておらず
秋星へライオンひとつ寝返りす
猫の眼のひらりと戻る牡丹雪
いちどきり雪をみし眼の雛しまう
空にねる脚長蜂をおこしたか
蟬が死にあらがう音か月の屋根
遅刻するつもりの鞄秋の雲
柚子湯してほろびた国の夢をみて
秋風や口の限りのあくびして
さわやかに観音様へ切る十字
などにも心惹かれました。
やはり、『谷さやん句集』は、色とりどりの美しいスイーツの詰まった箱で、一句一句を美味しく味わいました。
]]>
職場でそこそこうまくやっている二谷と、皆が守りたくなる存在で料理上手な芦川と、仕事ができてがんばり屋の押尾。ままならない微妙な人間関係を「食べること」を通して描く傑作。
との紹介がありましたが、個人的には、ちゃんと(自分らしく)生きられない男と、それぞれ自分の価値観の中でぶれることなくちゃんと生きようとしている女・二人の話として読みました。
二谷は、大学進学の際に文学でなく経済を専攻した頃から、自分は「好きなことより、うまくやれそうな人生を選んだんだ」と落ち着かない思いをかかえながら生きています。そして、栄養満点の食事やデザートなどの「生きるためじゃない食べ物が嫌い」で、「ちゃんとした飯を食え、自分の体を大切にしろって、言う、それがおれにとっては攻撃だって、どうしたら伝わるんだろう」との思いを抱えながら、(人に知られないところで)夜間にカップ麺を食べることで自分らしさを保っています。世間に同調した見せかけの人生を生きる二谷は、ちゃんと生きてない部分(食事に気を遣わないこと)を持ち続けていることで、世間への反抗心(自分らしさ)を陰ながら何とかキープしているような人物です。
一方、そんな二谷の彼女である芦川は、仕事はちゃんとできない(責任感もない)ものの、ちゃんとしたご飯を食べる(日々の食事に気を遣い、会社には差し入れのお菓子を作ってくる)、という家庭的な女性らしさの点では、ちゃんと生きようとしている人物です。だからこそ、そんな芦川は、嫌な仕事であってもちゃんと働きたいと思っている押尾の視点から見ると、苦手で腹立たしささえ感じる存在ということになってしまいます。
芦川の料理を苦々しく思っている二谷と、芦川への反感を共有する押尾は、一見、同極にあるように見えますが、最後まで芦川に本心を明かすことなく付き合い続ける二谷は、「うまくやれそうな人生を選んだ」頃と全く変わっておらず(=ちゃんと自分らしくは生きられず)、力強くちゃんと生きようとしている押尾側に立つことはありません。それどころか、二谷は芦川の食べ物への執着に嫌悪感をいだきながらも、結局、かわいらしく、やさしく、頼りなく、守られて当然というふてぶてしさのある芦川と結婚するだろう現実を受け入れたままなのです。
そんな二谷の物語を読み終えた時、タイトル「おいしいごはんが食べられますように」が、急に恐ろしいものに感じられてきました。二谷の考え方に変化がないならば、思ってもいないことを口にするアイロニックなタイトルということになりますし、心変わりをしたのならば、唯一の自分らしささえ捨てて、おいしいごはんを食べるようにになることを願うのか……と。しかし、「ように」が二谷自身の本当の願望となっていくのであれば、それは、おいしく食べる芦川との人生を選択できたという点で、二谷にとっては流される人生からの一歩前進となっているような気もします。タイトルをどのようなニュアンスで受け取るか……(もちろん、芦川や押尾の台詞としての解釈も成り立ち、それでさらなる深みも加わる訳ですが……)、二谷の生き方を読者がどう受け取るかで、大きく印象の変わってくるタイトルであるのを面白く感じました。
]]>また、「アメリカに行って、あいつも変わったようだ」と言われるように、『容疑者Xの献身』の事件への後悔をにじませ、ただ真実のみをつきとめようとする従来の湯川ではなく、「親友の悔しい思いを晴らして」やるために自発的に事件に関わっているのも興味深く、日本の警察組織や司法が作り出した闇が織り込まれたストーリーの中に、より人間ドラマとしての深みが加えられているように感じました。
また、タイトルの「沈黙」「パレード」のそれぞれの意味が読み進めば進むほど、何層にも意味づけされていくのを面白く読みました。当初は、黙秘権を行使し続け、沈黙を守ることで無罪を勝ち取ってきた卑劣な凶悪犯の「沈黙」であり、事件の舞台となる町の行事である「パレード」を指しているのだと思っていました。しかし、読み進むに従って、容疑者の沈黙とは対極にある、大事な人を守る為の様々な沈黙(湯川すらも沈黙を選択する可能性を持っている)へと沈黙の種類が置き換わっていき、あたかも「パレード」のようである様が見事でした。
沈黙罪というのはあるのでしょうか。
沈黙するだけです。沈黙は自由なんでしょう
事件の結末は動かせないにもかかわらず、その結末を越えたところで、すがすがしさを感じさせる読後感となっていたのも、その見事な「沈黙」の「パレード」ぶりと、それらを支え続ける他者への愛情故であろうと感じました。「過去ではなく未来に視線を向けて生きていく方が合理的、と言うより楽なのではないか」との未来の可能性に目を向けた台詞が胸に残った作品でした。
]]>
「宮尾本」とある通り、『平家物語』の訳ではなく、平家の盛衰を女の視点から描いた作品となっていました。女性の中で、特にページを割かれているのが、平清盛の妻で、清盛亡き後は平家を引っ張っていく時子です。宮尾本は、この時子と、白河法皇の落胤であり、本来は武人ではなく殿上人であるはずであった平清盛が中心となる物語で、清盛が亡くなるのも3巻の中程となっていました。
清盛が亡くなる場面でも、本来の『平家物語』では清盛は「頼朝が首をはねて、わがはかのまえに懸くべし」と言い残し、その様を最後まで「罪ふかけれ」と描かれていたところが、宮尾本では、「今生の望みとしては何ひとつ思い残すことはなし」と言うだけで亡くなっていきます。
清盛どのほど懐の深いお方は、昔も今もおられませぬぞ。
ご一門を何よりも大切に思われ、それだけでなく敵にも情をかけるやさしきお方ではありませなんだか。
あの方は本来武人ではなく、殿上人。戦さはお嫌いなのでござる。若いころより忠盛どのに従い、その後はやむを得ぬ義によって心ならずも戦さを交えた、と申上ぐべきご生涯であったと勘案いたしておりまする。
まことに立派なお方でござりました。
一方、宮尾本で「頼朝の首をはねて、自分の墓の前に供えるべし」という言葉を発するのは、清盛の死後、平家の行く末を案じた時子です。時子は、平家の秩序を守り、一門を鼓舞するためにやむなく嘘の遺言を伝えるのです。『平家』の清盛と同じ台詞でありながら、全く異なった印象を与える台詞となっていることに驚かされましたし、またそれ故に、本来殿上人であるはずの清盛が、武人として育てられ、栄え(武人として、位を得て殿上人となり)ながらも、また武人として滅びていかざるを得ない無常がいや増しているようにも感じました。
「平家に非ずんば人に非ず」に象徴されるような驕り高ぶる平家という印象がそれほど強くなく、また、軍記物的な戦いの場面にもそれほど焦点が当てられない宮尾本は、人間関係の中から浮かび上がっていく登場人物達の人となりや人生が迫ってくる作品だと言えそうです。
我ら朝家の血を引く人間が戦さ巧者なはずもなく、また戦さを好きになれぬのも理の当然と申すべきではあるまいか。
このような、宮尾本独自の創作の中で特に驚いたのが、平家の血を残すために、実は安徳天皇と守貞親王が入れ替えられていて、入水したのは守貞親王だったという解釈でした。後鳥羽天皇の即位によって、帝位を追われた後に海に沈んだはずの安徳天皇が、出家して天皇にはならなかったものの、承久の乱(後鳥羽上皇が敗れる)を経て、後高倉院として院政をしいたところを興味深く読みました。この最後の展開にも、宮尾本的な諸行無常を感じさせられながら本を閉じました。
どうやら宮尾さんは、『宮尾本』の内容に沿った『平家物語の女たち』というエッセイも書かれているようです。こちらを読めば、より宮尾さんならではの解釈が深まりそうだなと、さらに興味を引かれています。
]]>吉良上野介を義父として持つ旗本・采女の他、絵師・朝湖と俳人・其角など、将軍綱吉の治世下の江戸で、「生類憐みの令」により釣りを禁じられていくことになる釣り狂いの者達の物語でした。一般に美談のように語られる赤穂浪士の討ち入りを頂点に置きながら、綱吉から出される禁令の数々が生み出すことになった世の中の鬱憤が重ねられていきます。吉良側である采女の視点で描かれていくことで、事件と世の中を冷静に写した物語となっている点を面白く読みました。
冷静な思考をできる者は、誰もが、被害者は吉良上野介であり、加害者が浅野内匠頭であると分かるが、風聞はそうではなく、その風聞によって、民の心はたやすく操られてしまうのである。
もしかしたら、赤穂の浪人たちも、この世間にのせられてしまっているのではないか。(略)期待が世間では高まっている。その浪に、赤穂の浪士たちも背を押され、やらねばならぬ、やらねば面目が立たぬと考えるようになってしまっているのではないか。(略)起こらねば納得しない世間がある。(略)世間によって、時代の前に引き出されてしまった贄なのではないかと思う。(略)世間には鬱屈が溜っている。その押さえつけられたものが、赤穂の浪人達の仇討ちというかたちとなって、吹き出ようとしているのではないか。
そして、小説を貫いているのが、「ひとつのことに狂って身を滅ぼす」ことを潔しとする生き方でした。「人が生きてゆくための杖」「弱い人間がすがる杖」となる釣りを中心に据えながら、「狂」と「求道」がまるで同義のように描かれていくのを清々しく読みました。ある意味「狂」としか言えない禁令を出し続けた綱吉でさえ、「己れのやろうとしていることで、自身ががんじがらめになってゆく」弱い人間として描かれているのが印象的でした。
『大江戸釣客伝』は、容赦のない世間に踊らされないために、「世間の風に負けてたまるか」と、哀しみを「狂」に変えて、(世間的には浮かばれない結末であろうとも)一心に憂き世を生きてゆく男たちの物語であるのかもしれません。
]]>1989年から2004年を舞台に、「不良債権を抱え瀕死状態にある企業の株や債券を買い叩き、手中に収めた企業を再生し莫大な利益をあげる」バルチャー(ハゲタカ)・ビジネスが描かれた経済小説です。
ニューヨークの投資ファンドの日本法人運営会社長・鷲津政彦が、瀕死状態の企業を次々と買収していくのですが、敵対するファンドによる妨害や、買収先の社員からの反発を受けながらも、斬新なプランで企業を買い漁る展開は、経済用語は多いものの、これまで知らなかったビジネスの世界を垣間見せてくれるもので、門外漢の私としては興味深く読みました。なんと言っても一番の読みどころだったのは、ビジネスとは違うところにあった鷲津の真意(復讐劇)が重ねられていくことと、それ故に、読み進めば読み進むほど主人公鷲津の印象が変わっていく点でした。
「身長は165センチ、華奢な身体とソフトな表情、外資系企業のトップというよりも物腰の柔らかい有能な秘書の風情、ニューヨーク製スーツも彼が着ると安っぽく見える、渋いというより地味、卑屈に響くしわがれた声」の鷲津。(ブックカバーのドラマで鷲津を演じた綾野剛さんとは全く違ったイメージで……)主人公らしからぬ風貌で登場して驚かされましたが、読み終わってみると、鮮やかな手腕を発揮して決して勝負を落とさない、まさに金融界の「最強の鳥」である彼が、自らの信じる「正義」を突き通す物語でした。この彼の外見と実像の二面性は、世間から見ると「ハゲタカ(コンドル)」のようでありながら、鷲津自身が目指すのは神の化身である「ゴールデンイーグル(イヌワシ)」であることに重なっていくものでもあり、また、ハゲタカビジネスが一見無慈なようでありながら、結果的には何らかの救済をもらたしていることを象徴しているようにも感じた作品でした。
]]>高校生限定のマッチングアプリ「オルタネート」が必須となった高校生活を舞台に、様々なコンプレックスやトラウマを抱える登場人物達が交差していく青春小説です。オルタネートというアプリを使う者、使わない者、使えない者、それぞれが背負う背景が丁寧に書き込まれていて、中心となる3人の人物の物語が別々に進行していくので、ストーリーも重層的となり、面白く読み進めました。何よりも驚いたのは、クライマックスにむかうボルテージの上がり方で、後半はページをめくる手が止まりませんでした。
一元的でないストーリー展開はもちろん、高校生の「可能性」をキーワードに、見なければならないものを見、何らかの選択をしていく彼らの姿が描かれているところを面白く読みました。そしてまた、彼らが自ら選択していく中で、図らずもそれぞれの「オルタネート」と関わり方が反対の方向に動いていくという展開も興味深く感じました。
「敵か味方か分からないオルタネート」というアプリの不安定さは、「一緒に育てると良い影響を与える組み合わせの植物」同士のような関係を見いだそうとする青春時代そのものであり、それゆえに、彼らのまっすぐな純粋さが際立ってきて、高校時代という限られた時間を眩しく懐かしく感じた小説でした。
]]>
文筆家たるもの、どのような現象であれ、それを楽しむ余裕というか、意地というか、遊ぼうという心意気が必要であるのは言を俟ちません。これまで以上に、楽しく、狂ったように踊りまくらねばなりません。
そんな中、話題の中心となるのが、獏さんが長年秘かに続けていたという俳句についてです。縄文の神が宿ると季語になるとか、縄文の神と交信する17音の物語が俳句であるとか、俳句は季語の背後の物語であるとか、大胆ながらも、示唆に富む説が丁寧に展開されていて、興味深い読書体験でした。
実は、個人的に夢枕獏さんは初読みで、いまだに小説を手にとったことがありません。これはぜひ読まねばならない! と思いつつ……、いろんなジャンルがありそうなので、どれをにしようか悩みはじめたところです。
以下、連載が始まった当時、この書籍について触れている『夏井いつき俳句チャンネル』の「【正人が大ファン】夢枕獏さんを紹介します」のリンクです! ご参考までに〜!
(画像は『夏井いつき俳句チャンネル』より)
]]>20日は、予選リーグが開催されている大街道に向かいましたが、コロナの間に高校生は一新され、三年生にとっては最初で最後の松山開催とあって、いっそう熱気が感じられました!!
各会場を回っていると、審査員を務めている会長と副会長を、同じ会場で発見!
また、以前nhkkが関わっていた俳句コンテストに、小・中学校の間応募してくれていた子どもたちが高3生となって出場していて、母のような気持ちで、感慨深く試合を見守りました。
ギャラリーの中にも様々な俳句の場で出合った懐かしい面々を見つけ、さながら俳句甲子園という名の同窓会のようでした!
21日の決勝リーグは、最近のコロナ感染拡大で無観客に変更になってしまったので、YouTubeでの観戦となりましたが、素晴らしい戦いが繰り広げられ、一日パソコンの前を離れられませんでした!
戦いの模様は、YouTubeのアーカイブにも残っているようです。
写真は俳句甲子園HPより
結果の詳細も、あらためて俳句甲子園HPにて掲載されますが、ぜひ動画で生のディベートの迫力をどうぞ!
]]>
世間から、「小児性愛者の誘拐犯」と「被害者少女」というレッテルを貼られた二人の物語で、事件の当時とその15年後を、彼らの心境を軸に、丁寧に丁寧に紡いでいく小説でした。帯にある凪良さん自身の「文と更紗 ふたりが楽に生きられる世界であるようにと願って書きました」のメッセージに目を止めずとも、表紙を開くとすぐに、扉より前に挟み込まれている次のメッセージに驚き、いわゆるレッテルを貼り付ける社会的な視点からではなく、主人公の心に寄り添って読んでもらおうとする作者の意図を強く感じました。
最初にお父さんがいなくなって、次にお母さんもいなくなって、わたしの幸福な日々は終わりを告げた。すこしずつ心が死んでいくわたしに居場所をくれたのが文だった。それがどのような結末を迎えるかも知らないままにーー。だから十五年の時を経て彼と再会を果たし、わたしは再び願った。この願いを、きっと誰もが認めないだろう。周囲のひとびとの善意を打ち捨て、あるいは大切なひとさえも傷付けることになるかもしれない。それでも文、わたしはあなたのそばにいたいーー。新しい人間関係への旅立ちを描き、実力派作家が遺憾なく本領を発揮した、息をのむ傑作小説。本屋大賞受賞作。
彼らの心に寄り添いながら読み進めていくことで、二人に貼られたレッテルが、全く事実無根であるだけでなく、世間というものが、なんと一方的で人の心を勝手に分析し、当て推量をするものなのか、なんと乱暴で真実の声に耳を傾けない理不尽なものか、がより胸に迫ってきました。二人は、世間の見方次第によって違った形に見える「月」であり、今後も彷徨い(「流浪」し)続けるしかないのでしょうが、「大事にしているもの」は「取り上げられ」、「自分を欠陥品だと思う二人」が、「なんと呼べばいいのかわからない」が「わたしがわたしでいるために、なくてはならない」「新しい人間関係」に辿り着けている結末には救いを感じずにはいられませんでした。
わたしたちは親子ではなく、夫婦でもなく、友達というのもなんとなくちがう。わたしたちの間には、言葉にできるようなわかりやすいつながりはなく、なににも守られておらず、それぞれひとりで、けれどそれが互いをとてもちかく感じさせている。
]]>女性セブンでの1年間の連載に、2編を加筆! 「これだけはどうしても書いておきたかった」「思いもよらぬ人生の悲喜交々と、俳句の日々を綴った」45編のエッセイ集です。笑ったり、泣いたり、心震わされたり……、胸が熱くなるエピソードが詰まっていて、まさに、装画の抽象画が象徴するような、様々な味わい方のできるエッセイ集です。
師匠となる黒田杏子さんとの出会いや、夢枕獏さんとの交流などなど、人生で出会った忘れ得ぬ人たちとのエピソードを軸としながら、『プレバト!!』や『一句一遊』の誕生秘話や、俳句の種蒔き活動への思い、そして、3歳を最年少にバラエティ豊かな佳句も紹介されていきます。中でも、若くして亡くなった父の物語を頂点とした副会長の原風景を描いたエピソード群は、エッセイの枠を越えた物語のような味わいとなっています。
装丁も、ソフトさ&シンプルさと重厚感のミックス具合が絶妙な佇まいで、まさにエッセイの内容そのもの。ぜひとも、コロッと収まる感じを手にとって楽しみながら、副会長のこれまでが詰まった物語を、コロッと胸に納めて頂きたい! そんな一冊となっています。
]]>長く辛い不妊治療の末、自分たちの子を産めずに「特別養子縁組」という手段を選んだ栗原清和・佐都子夫婦と、中学生で妊娠し、断腸の思いで子供を手放すことになった幼い母ひかりの物語で、出産を機に歯車が狂ってしまったひかりの六年間の人生も織り込まれていきます。(図らずも、また家族の形を探ろうとする物語を手にしていたことに驚きました。)
「特別養子縁組」で子供を迎えるにいたるまでの栗原夫婦の葛藤と覚悟が、きれい事ではなくしっかりと描かれていて、息子に真実告示もした上で、やっと手に入れた幸せな生活を、眩しく感じながら読み進めました。そんな彼らの前に訪れる、「息子を返してほしい」という6年後のひかり。栗原親子の生活を脅かすものとして登場するひかりの真意が何なのか、彼女の背負った人生があまりにも悲惨で救いがないこととも相まって目が離せなくなっていきました。
しかし作者は、産みの母と育ての母の対立を描こうとはしません。ストーリーの中で、佐都子夫婦が、あまりにも変容したひかりに気づくことができず、朝斗の母親を軽んじられたと怒り、拒絶する行為は、一見、ひかりの存在が否定されたようでしたが、ひかりにとっては「すでに失った、あり続けたかった自分自身を無条件に信じてくれる」救いを与えてくれる行為として描かれていきます。
実の親からも「失敗」の烙印を押され見放されたひかりが、やっと手に入れることができた「(朝斗の生みの母として)大事に、いたわられる存在として、あの家の一員に加えられている」喜び。それが、現在の彼女が否定されることでしか得られないという彼女の現実に、さらに胸がしめつけられました。
息子・朝斗を初めて抱いた時、「朝が来た」と感じた佐都子。
終わりがない、長く暗い夜の底を歩いているような、光のないトンネルを抜けて。永遠に明けないと思っていた夜が、今、明けた。
この子はうちに、朝を運んできた。
ラストで、何処にも行き場がなく「ここでおしまいにしてもいいんじゃないか」と考え初めたひかりを見つけ出したのは、佐都子と朝斗でした。朝斗の母として、佐都子に抱きしめられるひかり。この後やっとひかりに「朝が来る」のだ、と思わせるラストで、二人の母親をじっと見つめ続ける朝斗の澄んだ目は、これから彼らが一緒に本当の家族となっていく未来を見つめているように感じました。
]]>教育誌『灯台』での連載を書籍化したもので、読者の投句を例句に、添削も含めた俳句づくりのイロハが学べるように再構成された一冊です。さらに、書籍化にあわせて、超初心者であった編集者「くじら」さんと「水流(つる)」さんの成長の軌跡も「Talk Session」として掲載されています。
俳句は筋トレと同じで、続けていけばいくほど間違いなく筋力はついていきます。それを「俳筋力」と呼んでいますが、身についた筋肉は人を裏切りません。「継続は力なり」とは、まさに俳句修業そのものを言い表す言葉です。
編集者二人の6年にわたる「背筋力」育成体験はいかに!? 読者の投句を元に、具体的に学ぶことのできる本書で俳句を初めてみませんか!?
Step1 俳句の基本の “基“
Step2 「オリジナリティ」と「リアリティ」
Step3 「取り合わせ」と「一物仕立て」
Step4 季語を信じる
Step5 映像を切り取る
Step6 まだまだ続く俳句修業
Talk Session くじらと水流の成長物語
2022年7月28日付の愛媛新聞の一面に本書の広告を発見!
俳句超初心者だった連載担当くじらさんが、本書発刊の感慨を込めた渾身の(?)一句
筋トレの苦節六年豊の秋 くじら
そこに載せられていた俳句に冠した「渾身の(?)」に、くじらさんの「
夏休みの宿題の参考図書にもぜひ!
]]>このところ読んでいた、早見和真さんの『八月の母』・『イノセント・デイズ』とは真逆の家族関係で、ある意味とても新鮮でした。文庫の裏表紙には、
幼い頃に母親を亡くし、父とも海外赴任を機に別れ、継母を選んだ優子。その後も大人の都合に振り回され、高校生の今は二十歳しか離れていない“父”と暮らす。血の繋がらない親の間をリレーされながらも出逢う家族皆に愛情をいっぱい注がれてきた彼女
とあるように、主人公は、3人の父と2人の母を持ち、水戸優子・田中優子・泉ヶ原優子・森宮優子と名前を変えることになります。継父継母がころころ変わり、血の繋がらない人と暮らしながらも、「親との関係に悩むこともグレることもなく、どこでも幸せ」という設定の中で物語は進んでいきます。
優子の親であるために、最善を尽くそうとする全ての親たち。血の繋がりを越えたところにある、家族としての愛に満ちた作品でした。もちろんそこには、優子が名前を変えなくてはならなくなった真実なども織り込まれていくのですが、その事情も含めた全てが、“優子が伴侶を迎えて自分の家族を作ることになるクライマックス”に集約されていく構成で、どんどんボルテージがあがっていきます。優子の為だけに生きようする親たちに育てられることで、彼女の幸せが、親の数だけ倍増されていくので、読者までが一緒に幸福感を抱きつつ温かい涙を流すことができるラストでした。
ここでの生活が続いていくんだと、いつしか当たり前に思っていた。血のつながりも、共にいた時間の長さも関係ない。家族がどれだけ必要なものなのかを、家族がどれだけ私を支えてくれるものなのかを、私はこの家で知った。
また、冒頭と末尾が、優子の現在の父である森宮の視点で書かれている趣向も好ましく、読者である私自身までが、森宮と一緒に、優子に渡される“大切な人のために生きるバトンリレー”を見届けたような気になりました。
]]>冒頭のプロローグで、主人公の凶行が示され、死刑の宣告がなされた上に、私生児として出生した過去や、母が十七歳のホステスであったこと、養父から虐待を受け、中学で強盗致傷事件を起こしたことなどが明らかにされます。しかし一方で、冒頭の彼女のイメージとはどうにも違和感のある、犯罪者らしからぬ彼女の様子が描写されていくので、読者としては、「イノセント」というタイトルが、どのように彼女に掛かっていくのか、その謎に引きつけられたまま読み続けていくことになりました。
物語は、産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人、幼なじみの弁護士、刑務官ら、彼女の人生に関わった人々の追想から、彼女の人となりと真実を詳らかにしていく構成でした。そして、ラストには衝撃の真相が待ち構えているのですが、その結末以上に驚かされ、また、悲哀を感じずにいられなかったのが、「イノセント・デイズ」が、この事件だけについてではなく、彼女の人生全てに対して掛かっていくものであったという真実でした。
「無実の」「純潔な」の両方の意味で「イノセント」でありながらも、決して救われることのない彼女。ままならない運命を背負って逃れられない彼女の人生は、あまりにも悲しいものですが、そんな中で、彼女自身が求め続けながら決して手に入れられないと諦めていた「君が必要」と言ってくれる存在を得、望み通り絶望する人生を終えられるという結末は、作者が彼女に与えられるかすかな救いだったのかもしれない……と感じずにはいられませんでした。
読み終えて、『八月の母』の冒頭で、さらりと登場していたとあるニュースの続報が、『イノセント・デイズ』の事件の続報だったのだ、と気づいた時、「必要とされることを欲せずにいられない人間」や「無辜の人間の犠牲」という両作品を繋ぐテーマが浮かび上がってくるように感じました。続報の書き込みは、『イノセント・デイズ』のその後を知りたい読者たちへのサービスを越えて、無責任な世間の正義感や、社会の無関心、そして、空虚さという早見作品が持つ空気感をよりリアル読者に手渡す道具でもあったのでしょう。
]]>愛媛県伊予市を舞台にした四世代に亘る母の物語です。タイトルに「母」が付いているとは言え、まさか「母」が四世代も描かれているとは思っていなかったので、世代が交代する度に、えっ、主人公じゃなかったの……! と、驚きと共に読み進めることになりました。
最終的な主人公に行き着くまでの三人の母が、いわゆる毒親というカテゴリーに入ってしまうような母達だったのですが、三人三様の母達であることで、毒親という言葉だけでは括ることができない人間の多様性が描き出されていて、母の犠牲となっていく娘という負のスパイラルに、より信憑性が与えられているように感じました。(以下、ネタバレありです)
「母性」の歪んでしまった「母」。本来守ってくれるはずの母に庇護されず、他者の悪意や性暴力で傷つけられる子供達。そして、血縁関係のない疑似「家族」たち。その中で、最も悲惨な事件を引き起こすきっかけとなったのが、愛情深く、まともな母であろうとしていた者であったという何ともいたたまれない現実。悪意など無かったものが、結果的に悲劇をもたらしてしまう、という救いのなさが際立ちます。また、疑似家族の中にやっと自分の居場所を見つけられた者が、結局、事件の被害者となってしまい、本来の家族と新しい疑似家族関係の相互から二重に見捨てられてしまうという顛末……。
次々と重ねられていく母の犠牲となる娘の連鎖の物語は、断ち切ることなどできないのではないか、と思われるほどでしたが、連鎖を断ち切るための子から母に与える許し、という結末に大きな救いを感じました。つながりを断つことで、誰かのせいにせずに自分のために生きる道を手に入れていく結末にやっと光が見えました。
タイトルの「八月」に加えて、終戦記念日として知られる「八月十五日」へのスポットの当て方を思う時、戦前の国(保護する側)に翻弄されて犠牲となった日本人の、新しい日本に生まれ変わることで得た、戦後の自由が重なってくるように感じました。「八月の母」は再生の物語であり、虐げられている者への祈りの書なのでしょう。
]]>利休の一番身近に十年間仕えた本覚坊が、利休の死後茶道から離れてしまっていたものの、期せずして出会うことになった人々との交流を記した手記は、各章ごとに数年の時間を経ていて、形式も同じではありません。
1 〈賜死後6年〉 東陽坊(真如堂東陽坊の住職。黒楽茶碗を利休から送られた)
2 〈賜死後13年〉江雪斎(秀吉・家康に仕えた武将。茶の師は山上宗二)と山上宗二記(利休の弟子・山上宗二の記した秘伝書)
3 〈賜死後20年〉古田織部(利休の死後、武将らしい豪放な大名茶を大成)
4 〈賜死後24・25年〉織田有楽(織田信長の弟で、国宝の茶室如庵を作る)
5 〈賜死後28年〉千宗旦(利休の孫。佗茶に徹し三千家の基礎を築く。)
6 〈賜死後30年〉本覚坊の記憶と夢
読者は弟子本覚坊の記憶と共に、各章で本覚坊が出会う人の目を通した利休その人と、利休の死の謎にせまっていくことになります。また、新しい人物に出会うタイミングで、前章の人物がすでに亡くなってしまっているというのも(孫宗旦のみ例外)興味深い趣向でした。
なぜ武士でない茶人の利休が死を賜り自刃したのか。その理由を利休の内面にさぐるために選ばれた、弟子本覚坊。利休の茶「佗茶」が、「戦国乱世の茶の道」にほかならない「己が死の固めの式」であるという井上靖解釈に驚かされると共に、なぜ戦乱の武将達があれほど茶の湯を重んじていたのか、武将達が茶の湯に縋らずにいられなかった理由も垣間見ることができたような気がしました。
本作は、1989年に熊井啓監督×奥田瑛二(本覚坊)で映画化もされているようです。「オール男優キャストにより、武士のような求道的生き方をした男、利休の精神面にスポットをあてた重厚な作りになっている」とのこと。古い映画ではありますが、どんな魅力的な茶人と武人たちが描かれているのか、興味がわいてきました。
]]>利休の侘び茶とは、彼がひたすら求め続けた美とは何か……、この答えを知られざる利休の恋という完全なるフィクションで解き明かしていく手法に息を呑みました。そして、なぜ利休が極小の茶室に辿り着いたのか、といった、利休にまつわるノンフィクションの全ての謎を、寸分の狂いもなくフィクションの恋で成立させてしまっている鮮やかさに、読後すがすがしさを感じました。
ともかく、利休へのリスペクトに溢れた作品で、利休の「一碗の茶をかけがえのないものとして慈しむ執着と気迫」や「人の心を狂わす魔性」、「ひたすら美に対して謙虚」で、「さりげない素朴さの中に、深遠な調和の美を見いだす天賦の才」を存分に味わえる一冊でした。
また、利休切腹の日から始まって、秀吉や信長や家康、古田織部などの利休の弟子筋の面々や、師匠の武野紹鴎、利休の茶碗を作った長次郎などの主要人物とともに、利休の人生を遡っていくという趣向も面白く、読後にはただ、「天にゆるりと睡り、清風に吹かれているような」千利休の残影だけが見える小説でした。
茶の湯には、人を殺してもなお手にしたいほどの美しさ、麗しさがあります。(略)美しさは、けっして誤魔化しがききませぬ。道具にせよ、手前にせよ、茶人は、つねに命がけで絶妙の境地をもとめております。茶杓の節の位置が一分ちがえば気に染まず、手前のときに置いた蓋置の場所が、畳ひと目ちがえば内心身悶えいたします。それこそ、茶の湯の底なし沼。美しさの蟻地獄。ひとたび捕らわれれば、命をも縮めてしまいます。
]]>
國原先生は、
教育現場における俳句教材には大きな可能性があり、子ども達の資質・能力を育むために有用性があると考え、日々実践的な研究を行っております。ぜひ、俳句の魅力を授業にいかし、子ども達の資質・能力を、俳句を通じて育む授業を皆様方と考えていくことができればと思っています。
との思いでご実践されているとのこと。
京都教育大学附属図書館蔵書からダウンロードしました3つのご論文をご紹介いたします。
(京都教育大学附属図書館蔵書からは、俳句教材以外の國原の実践論文もご覧いただけますので、合わせてご案内いたします。)
言葉による見方・考え方を働かせた話し合い活動の可視化と集合知の形成について─俳句の相互鑑賞における生徒発言の分析を通して─
(↑クリックされると、論文をご覧いただけます)
俳句の鑑賞をもとに、生徒の使った言葉を解析することによって、
今後、教材が「俳句」であることの可能性をさぐるのならば、
新学習指導要領における俳句の教材的価値に関する研究
(↑クリックされると、論文をご覧いただけます)
「言葉による見方〜」の実践同様の、形態素解析やKWICによる分析で、
「古池や蛙飛びこむ水のおと」の話し合いの内容も面白く、こちらも生徒が「
(↑クリックされると、論文をご覧いただけます)
着眼→分析→一般化という枠組みを教員側が用意した上で、
実際の3つの俳句がどんな俳句だったのだろうと興味がわいてきま
國原先生、ご実践をお送りいただきましてありがとうございました。
nhkkでは、皆様からの実践報告をお待ちしております。メール nhkk.info@gmail.com または フォーム にてご連絡くださいませ。資料を添付される場合はメールにて、郵送をご希望の場合は、事務局までお送りくださいませ。
〒790-0921
愛媛県松山市福音寺町553-2-904
株式会社 夏井&カンパニー 内
日本俳句教育研究会事務局
八塚 宛
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全11ページの小特集です。
各ページの見出しをご紹介すると、
カンタンに楽しく! 自分らしい俳句作り
どうすればいいの? 俳句の悩みQ&A
STEP1 「俳句のタネ」は、暮らしの中に無限にある
STEP2 『歳時記』と仲良くして「季語」に出合う
STEP3 「タネ」と「季語」の組み合わせ方
誌上添削コーナー 特別ライブ授業
STEP4 作った句に向き合う
ほかの人の句とアドバイスに学ぼう
楽しいときもしんどいときも俳句を「人生の杖」に
となっています。
初心者の方でも、簡単に一句が詠める構成になっています。
先生方は、授業や教材のヒントにもなりそうです!
『婦人公論』の第二特集、「毎日がたのしくなる 夏井いつきの俳句レッスン」から俳句のある生活をはじめてみませんか?
]]>幼い頃に両親を惨殺され施設で育った三兄妹の復讐劇! 「この世は騙すか騙されるかだ」という現実を突きつけられた兄妹の選んだ詐欺という生活手段! 復讐相手の息子への妹の恋心! これらのミステリーを盛り上げる要素が絡み合っていくので、一気に読み進めていきました。
早い段階で、被害者であるはずの三兄妹が、詐欺を働く犯罪グループだと分かるので、本書がただの復讐劇とならないだろうことが予想され、待ち受ける結末にさらに興味がわきました。また、三人だけでなく、ほとんどの登場人物が、何らかの影を持っている……というのも、ミステリーの要素を強める以上に、主人公達の詐欺を、「悪」という視点だけで見ずにすむことに一役買っていたように感じました。誰だって後ろ暗いところがあるのだ……、と! そしてまた、唯一影のない「人間の奥に潜む悪意に触れたことがな」く、彼らに「罪悪感」を感じさせる人物を描き、その彼に妹が恋してしまうことで、結果的に三人の未来が変容していくという結末も印象的でした。
読後、思わぬ所にいた犯人には驚きましたが、何より、「流星の絆」という儚く消えていく「流星」に「絆」を取り合わせるタイトルが、胸に迫ってきました。自分たちを、「あてもなく飛ぶしかなくって、どこで燃え尽きるかわからない」「流星」だと感じながら、そこにある「信頼」という名の「絆」だけを拠り所に生きてきた三人。本書の「流星」とは、彼らが自身に重ねていた「どこで燃え尽きるかわからない」儚さを象徴したものなのではなくて、真っ暗な夜としか言えないような人生の中にあって、一瞬だけれども光を与えてくれる煌めく存在としてあり続けた彼ら自身の確かさを表わしているのかもしれないと感じました。そして、また、そこに新しい流星として妹の恋する彼が加わるのでしょう。
本書は2008年に、脚本を宮藤官九郎さん、三兄妹を二宮和也×錦戸亮×戸田恵梨香さんで、ドラマ化されていたと知りました。視聴率が20パーセント越えの人気ドラマだったとのこと。とは言え、ドラマのテイストは、東野圭吾さんのシリアスな空気感とは随分違いそうです。クドカン色の別物としてドラマも気になり始めています。
]]>後藤先生は、食のスペシャリストを目指している生徒さんたちに、
食に関心の高い学生のみなさんの勉学になにか役立つことを考えていたときに、歳時記には食に関する季語がたくさんあること、この国の豊かな食文化を継承し、さらに興味を深め、感性を養う一助にと思い、旬の食材を毎月ひとつずつとりあげ、なるべく読みやすい文章を添えて学内の図書館に掲示しています。
食、特に料理は五感の豊かさが求められます。俳句が感性を養うことに繋がれば本当に嬉しいなと思い、例句は学生にも親しみやすいものを選んでいます。今後はもっともっとたくさんの俳人の方の句をのせさせていただけたらと考えています。
コロナ禍や国際情勢から、将来的な不透明さが漂うこの頃ですが、俳句に触れることで豊かさを感じ、また元気になってくれたらという思いで制作しています。
季節とともに食材を季語として体感することは、
資料を拝見しているうちに、今後の発展的な活動として、写真の中に生徒さん達がそれぞれの素材を使って作ったお料理を掲載していくのも面白いかな……など、さらに想像が膨らんでいきました。
後藤先生、この度はご実践をお送りいただきましてありがとうございました。
nhkkでは、皆様からの実践報告や、俳句指導に関するご質問など、受け付けております。
資料や写真などは、メール nhkk.info@gmail.com または、郵送にてお送りくださいませ。
〒790-0921
愛媛県松山市福音寺町553-2-904
株式会社 夏井&カンパニー 内
日本俳句教育研究会事務局
八塚秀美
TEL/FAX 089-908-7520(呼出)
E-mail nhkk.info@gmail.com
]]>まさに、私自身までもが穴におちてしまったような……不思議な心持ちになる作品でした。本文の中に、『不思議の国のアリス』のウサギについての言及があるのですが、まさに、現代版の『不思議の国のアリス』と言えるような、現実と異界の交差を描いているようで、煙に巻かれたような後味で読み終えました。
物語は、夫の転勤に合わせて非正規の仕事を辞めて、夫の田舎に移り住んだ私が主人公。蟬の声をBGMに過ごしていく暑い夏の日が描かれていきます。主人公は、急に「穴」のような時間を手にしたわけですが、そこで彼女が出会う
1見たこともない黒い獣
2黒い獣を追って落ちた穴
3義兄を名乗る知らない男
4夏休みで田舎暮らしを謳歌する小学生たち
が、意味深です。いったいこれらが象徴しているものが何であるのか……。また、
5甘いお香の匂いが漂う世羅さん
6庭の水撒きに励む寡黙な義祖父とその死
がどこまで現実なのか……。
彼女が就職を決めるラストまでに、すくなくとも彼女の見ていた1〜4が現実世界のものではなかったことは示されるのですが、謎解きや匂わせるようなものはありません。
しかし、それらがそれぞれに象徴するものが具体的にあるのではなくて、再出発までの時間そのものが「穴」であって、彼女自身が「穴」の中にいることを欲し、そこで見たいものを見ていた小説のではないか……と考えると腑に落ちたような気がしました。人間だれもが欲しているモラトリアム期間のようなものが「穴」であり、読者それぞれが、自分自身にとってのぽっかりあいた「穴」のような時間の必要を思ったり、追体験したりすればよいのでは……と感じさせられた小説でした。
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児童や高齢者への虐待、ネグレクト、発達障害、認知症、学級崩壊、などの簡単には解決しがたい問題がいくつも絡み合っている短編集です。どの物語にも、保護されるべき子供たちが何らかの虐待を受けている(過去に受けていた)事実が背景となっているのが特徴的でした。しかし、それぞれの作品には、解決には至らないまでも、解決の予兆であったり、現状に飲み込まれないための精神的な支えのようなものが描かれていて、それらが救いとなって本書を支えているように感じました。登場人物達が少しずつクロスしているのも、それぞれの問題が独立したものではないことを示しているようで、同じ町の中で起こる些細な変化が、また次の良き変化に繋がっていくのではないか……という可能性も感じさせられました。
「みんないい子」というタイトルは、苦しい現実を受け入れて生き続けようとする登場人物達だけに向けられたものでなく、自分の現状を打破しようとけなげに生きている私たち読者に対しても送られている、作者中脇さんからのメッセージのように感じました。
]]>2021年1月〜12月の間、「ごくうweb」で連載していた俳句と鑑賞のコラム「17音の旅」を、加筆修正・再構成した一冊です。
【俳句で旅する】江戸期から3歳児の俳句までカバーする新刊 プレゼントにも最適
(画像をクリックすると、「夏井いつき俳句チャンネル」の紹介動画がご覧いただけます)
四季折々、心の赴くままに選んだ107句を、1ページごとに色合いを変えていく鑑賞文とともに旅していく一冊です。
取り上げる俳句は、芭蕉・蕪村・一茶といった江戸期の俳人から、子規・虚子ら有名俳人の他、鷗外・賢治ら文豪の俳句、そして、ちまたの知られざる俳人の句(最年少は三才児)まで、バラエティ―豊かな俳句が並びます。
書籍化にあたり、巻末には、初心者にも分かりやすい「季語解説」が追加され、鑑賞にさらなる深みが加わっていく作りです。
本文はオールカラーの持ち運びしやすいサイズ! 挿画は和田治男さんの立体イラスト、デザインは朱猫堂の美しい装丁で、お友達や大切な方へのちょっとしたプレゼントにもピッタリです。
俳句を作る楽しみはすでに手に入れたという人も、自分で作るよりも俳句の鑑賞に興味があるという人も、『夏井いつき、俳句を旅する』で、俳句を読み解く楽しみをのぞいてみませんか?
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(3)完成した『句×句=120』の一部
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石鍋先生、昨年に引き続きまして、コロナ禍ならではのご実践をお送り頂きましてありがとうございました。
日本俳句教育研究会では、皆様からの実践報告をお待ちしております。
お便りフォーム、もしくは、nhkk.info@gmail.com 宛にメールにてぜひともお寄せ下さい。
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(2)授業の実際
第1時は、俳句作りのポイントである「季語の本意[3]」を理解するためには季語を体感することが必要だと考え、校庭に出て季語を感じてもらった。「落葉」を選んだ生徒は拾ったり、蹴飛ばしたりしながら「思ったより触覚が多くてびっくりしました。重なった落ち葉はふわふわした」「意外と落ち葉がパリパリしていて、何かが壊れるような感じがしたのが面白かった」など、想像していたよりも落葉のイメージに触覚が関わっていると感じていた。授業開始時点と終了時点の六角成分図は変化していることが多く、季語を深く理解したと言える。この授業をもとに行った句会では、季語の本意を理解した俳句が多く見られ、上位句には、次のような俳句があった。「日向ぼこ眩しい日差しと体育と」「白黒のジムの広告冬の空」「かすんでるやまってどんな色だろう」。
第2時からは、緊急事態宣言発出に伴いオンライン授業が始まったため、動画を配信し、簡単な感想やコメントをMicrosoftFormsで回収するという形の授業を中心に行った。
動画配信と並行して行った「夏雲システム」での句会は、俳句に評を付けたり「談話室」という場で感想を述べ合うこともできる。これらを生徒は自発的に行っており、時には厳しい意見や評も飛び交っていた。週に1度程度の開催予定だったが、運用が簡便なため、予定外の句会も開催した。「遠足で必ず落とす卵焼き」という俳句に対し、本人が「今回本当は卵焼きがもっとコロコロ落ちていくのを表現したかったのですが、字数を合わせるのが難しく断念しました・・・」というコメントをしたため、その意図をよりよく表現した俳句を作るための句会を開いた。
「遠足や卵焼き先に下山する」「春風につれられてゆく卵焼き」「遠足の卵焼き食ふ大地かな」などのおかしみのある俳句に加え、「遠足で まわるまわった きやごまた」という転がっている玉子焼きを表現するために「きやごまた」と逆から表記したり、「遠足や転がっていくた ま ご や き」などと徐々に速度を上げて遠くに転がっていく様子を空白で表現したりなど、様々な工夫を凝らした投句があり、主体的に取り組んでいたと考えられる。この句会に参加したことで技術的に向上をしたと考えられる生徒も多くいた。
本の内容である三句選び、評をつける活動は、1〜3組をそれぞれ日本の美の典型である「雪」「月」「花」に分けて行った。インターネットや句集の中から、作品を選び、タブレットなどを使用しクラスで共有した。その中から、自分が良いと思う作品を三句選び、評をつけた。生徒たちが選んだ俳句や評を見ると、中学生の考える日本美がどのようなものなのか垣間見ることができたように思う。それぞれの評には独自性が現れながらも通底するものもあり、生徒は俳句と評を読み合うことを通じて、感性を交流することができたと考えられる。
また、生徒自身もテーマである雪月花にちなんだ一句を詠んだ。生徒の作品には生徒同士で評をつけたのだが、その評の内容は作者が想定した内容を超えた鑑賞になっているものも多かった。ことばによって表現することの面白さと、自分の思った通り伝えられない難しさを同時に感じることができていた。
本の作成の際は、委員を募り、生徒に校正や編集、カバーデザイン、タイムマネジメントや連絡なども行ってもらった。全員が俳号で作業を行っていたため一部連絡の不備があったり、機器不良から作業の遅延なども発生したが、自分たちで解決する姿が見受けられた。教員としては、全体の流れの把握と調整をする程度であった。
作成した句集は、以下の画像のようなものである。印刷会社に発注をかけ生徒分を購入した。コロナ禍で失われてしまったイベントの代替として、生徒の良い思い出になっていればと思っている。
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[3] 我々が共通の認識としてもつ季語の最もそれらしい在り方のこと。
カバー
クラス表紙
]]>2021年1月に3回に分けてご紹介しました「身体で季語を感じよう 〜オンライン句会の実践〜」の続きの実践ともなっております。
本日より3回に分けてご紹介いたします。
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はじめに
現在、社会は歴史上類を見ない早さで変化しており、未来を生き、未来を創り出す生徒たちには、その変化に対応できる教育が必要とされている。そのための一つの視点として、中学校では2021年度から、高等学校では2022年度から実施される新学習指導要領では、「主体的・対話的で深い学び」がキーワードとなっている。
国語科としては、目標や課題の解決に向けた、他者との協働を通して、言葉とその効果について考えることで「主体的・対話的で深い学び」を実現しようとした。
その中でも特に、俳句を教材として扱った実践を紹介する。俳句には思いやイメージを効果的に伝達するために多彩な言語技術が使われていることや、比較的短いため生徒に多くの作品に触れさせることができるなど、学習に適した特徴があるためである。また、生徒達に詩歌への一定の抵抗感が見られることも実践の契機となった。俳句自体は好きな生徒たちであるが、多様な解釈が可能となる詩歌は、定期考査などで問われる一つの「答え」が見出しにくく、なんだかよく分からない、何を学んだか実感しにくいといった感覚があるようだ。
そこで、俳句を用いた「主体的・対話的で深い学び」を実現することで、生徒が俳句などの詩歌に親しむための素地をつくること、他者と協働しながら確かな言葉の力をつけることを目的とし、本実践を行った。
実践 オンライン句会と句集『句×句=120』を出版しよう
『句×句=120』は、生徒達が作成した句集の名前である。
本実践は、選句や作句だけでなく、上記の句集名の決定から、本の校正・編集までを生徒を中心に取り組んだものである。第1時の授業は12月に行った対面学校での授業であるが、第2時以降は東京に緊急事態宣言が発出されたことにともない、オンライン授業を中心に行っている。
本単元の目的は、一語を深く理解し、創作や解釈に生かすこと、どのように鑑賞したかを交流することで他者と深い部分で繋がりをもつことであった。コロナ禍でクラスメイトと会えず、行事も中止になってしまった2020年度、思い出に残るものを提供できないかと考えて行った実践でもある。
(1)授業概要
?授業の流れ
(画像をクリックすると拡大してご覧いただけます)
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[1] 六角成分図とは、五感+連想力で季語を分析するためのレーダーチャートを指す。(2018)『夏井いつきの季語道場』NHK出版
?ICTとの関係
本校では、2021年4月には全生徒にタブレットの貸与を行っているが、本単元の段階でのICT環境は各家庭の状況に依拠しており、リアルタイムでの授業の視聴が難しい場合があった。また、個人情報保護の観点より、オンライン授業時に生徒の顔を表示することや呼名は行っておらず、生徒との相互のやりとりは作品やMicrosoftTeamsへの書き込みが中心となっている。
オンライン授業は動画配信を行い、感想や小テストをMicrosoftFormsで作成したアンケートフォームで回収する形で行った。句会も同様にMicrosoftFormsを使用していたが、途中から運用のしやすい「夏雲システム[2]」に切り替えた。
句集の内容は、既にある俳句から三句を選び、評を付ける活動と、自分たちで俳句を作り、評を付け合う活動の二つに分かれる。前者の元となる俳句はMicrosoftOneNoteという共同作業ができるアプリを使用して全員で収集した。後者は、教員の側でワークシートのようなフォーマットを作成し、そこに生徒それぞれがデータを打ち込む形で作成した。
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[2]「夏雲システム」は野良古が運営する無料の句会作成サイトである。登録することで、投句・選句・評まで句会を自動で進めることができる。 〔https://nolimbre.wixsite.com/natsugumo〕(最終検索日:2021年8月18日)
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